「目的がないと雑談できない人」は、役立たずになると老害になる説
自分のことです。
まとめ
・目的がないと雑談できない人は、情緒的な絆を基盤とする信頼ではなく、能力や貢献に基づく信頼を重視している
・自分に対しても同じように評価しているので、自分が「役に立たない」という認識に耐えられずに老害になるのでは?
目的がないと雑談できない人
「認知的信頼」と「情緒的信頼」
「目的がないと雑談できない人」は「認知的信頼」に偏っている人なのだろう。神谷さんに教えてもらった。
特徴をこの概念をつかって言い換える。
・友達がいない・・・「情緒的信頼」に基づいた人間関係がない、必要性を感じていない。
・目的がない飲み会などで、楽しくお話ができない・・・情緒的信頼を築く場所を理解できない
・褒められても、自分が納得できる褒められ方でなければ意味を感じない・・・褒められた内容に納得ができないと、「自分のその部分を評価した相手」の認知的信頼が高まらない。
このままではまずいのでは?漠然とした不安
ここからが本題。現状何も困っていないが、何かこのままではまずい気もする。少しわかったので書いてみたい。
現状困ってない:自分に対する「役立っている」という認知的信頼
仕事もある程度できてるし、何か世の中のお役に立っているのではないか?という部分で、自分で自分に対する認知的信頼がある状況だ。仕事においては情緒的信頼の優先度が低い人が対応したほうがよい内容もある。だからこれはこれで成立している。
このままではまずい、という不安:役立たなくなったときに、老害になる
情緒的信頼と認知的信頼を両方重視している人は、仮に自分が衰えて、「役立たず」になっても、「情緒的信頼」に基づく家族との関係性があれば特に問題ないのではないか(私には想定できないので、あくまで予想)。
対して、情緒的信頼を重視していない人は、「役立たずになった自分」を認められずに、「老害」としていろいろなところに出て行くことになり「めんどくさい人」になるのではないか。それはつまり「お役に立ってない人」である。認知的信頼を重視する人からすると、自分が「お役に立ってない人」になることが一番不安なのだ。
どうするか?
ここがよくわからないので、いろいろと書いてみる。
アイデア1:情緒的信頼を理解できるようになる
ひとつ最近の発見をかく。いまゲームコミュニティを自分で運営しているのだが、Aさんは私からすると「友達」ではないのだが、Aさんは私のことを「友達」だと思っているらしいのだ。言い換えると、私→Aさんは情緒的信頼はないけど、Aさん→私は情緒的信頼があるということだろう。
現状でも相手から私に情緒的信頼を置く人がいるのであれば、自分側が変化すれば、情緒的信頼に基づいた関係性ができるだろう。私には妻がいるが、たぶん妻とはある程度情緒的信頼があるだろうから、やり方はあるはずだ。
アイデア2:chatGPTと老後話せばよい
私はchatGPTに対して認知的信頼がある。chatGPTと話す分にはそんなに迷惑にならないだろうから、私の認知的信頼を獲得しつづけるやりとりを生成AIがしてくれれば問題ないという可能性もある。
今回は以上です!
誰かが書いてたけど、サポートしてもらったらそのお金をだれか別の人のサポートに回すと書いていて、それいいなとおもったのでやります!