ya tienen asiento
国境線の上をなぞる尾根歩きは見晴らしも良く足は軽快に進んだが、飾り気のない頂上で尾根道は尽き、私は少々の逡巡の末、左のほうの下りの道を選んだ。しばらく歩くと灌木が周囲に現れ始め、そうかと思ううちに道は深い森へ入った。
もう5日ほど人を見ていなかったので、急に視界が開けて下方に村落が見えた時は、幻ではないかと疑うほどだった。
今夜はまともな寝床にありつけるかもしれないと、小川沿いの道を歩を早めて下る。水汲みだろうか、頭に木桶を載せた少女を追い越す。と、違う。追い抜きざまに振り返って見ると、頭に載せているのは椅子だった。
彼女も私を見て、一瞬不思議そうな表情をした後、善意に溢れる微笑みを見せてくれた。得体の知れない旅人であるはずの私に対する屈託ない応対に、年甲斐もなくときめいてしまう。
村に唯一という宿屋に落ちつく前に見た村人は、目の前の宿屋の女主人を含めて5人。一人目の少女のように椅子を頭に担いでいたのはそのうち4人。
こうして今宿賃の交渉をしている相手の頭にある椅子は、帳場から動かない人間の頭に固定されてるわけであり、つまりその椅子はどこかに運んでいる途上のものではなく謂わば標準装備ということになりそうで、さすがに私も理由を尋ねざるを得なかった。
「席の予約は必要だろ?」と女主人はこともなげに言い、それが必要にして十分な説明であるかのごとくその話題は打ち切られ、「部屋の予約がない客はこの値段で譲れないよ。何にせよ予約は大切ってことさ」などと価格交渉のネタにされる始末だった。
奮発して2泊することにした部屋は、なかなか快適だった。屋根裏の部屋だが天井が高くて狭苦しさはなく、何より破風の下に位置する小窓からの眺めが良い。越えてきたばかりの蛇背山脈を遠景に臨み、真下には扇型をした村の中心広場が広がる。
すっかり傾いた陽が差す広場では、子どもたちが見たことのないルールのボール遊びをしている。いずれかの子を呼びに来た母親だろうか、苛立ち混じりの声を張り上げながら広場に入ってきた。その頭に椅子が載っているのをみて、そう言えば子どもたちは誰も椅子を担いでいないなと気づく。
一人が連れて帰られると、あっさりと他の子どもたちも解散し、じきに広場に宵闇が落ちてきた。いつの間にか広場の奥にある石造りの建物(おそらくは庁舎)の門の前に篝火が焚かれ、広場の一部を帯のように照らし出して、横切る村人たちに影を与える。真横からの光がつくり出す影は長く伸びて、窓からこの部屋にまで入ってくる。私の背後の壁に映るのは奇妙に歪んだ4本の棒状の影だった。村人の頭上にある椅子の脚が、ここまで影を伸ばしてゆらゆらと壁に揺れているのだ。
広場を行き交う村人たちは、椅子を担いでいないほうが稀で、私は彼らを観察して椅子の有り無しに法則性を見出そうとしていたが、遂に諦めた。空腹には勝てない。
宿は夕食はやっていないということで、私は女主人が椅子を担ぎながら器用にそして丁寧に地図を書いて示してくれた食堂(なのか酒場なのか)に向かうことにした。
ここまで話が通じないといっそ爽快でもある。
鱒の類の魚に乾燥肉を巻いて揚げ焼きにした料理に舌鼓を打ちながら、私は店主であろう男とずっと話を続けていた。一向に厨房に戻ろうとしない店主に向ける妻(だろう、おそらく)の目が冷たかったが、旅人を珍しがっている気持ちにつけ込んで、私は彼を自分のテーブルに独占し続けた。どうせ他に客はいないのだ。
しかし話せば話すほど分からない。
「なんで頭に椅子を括りつけてるのか」
「そうじゃないと落っこちるだろ」
「ではなくて、椅子を括りつける意味は」
「俺は両手で料理するからさ、椅子を手で支えてるわけにいかんだろ」
「いや、そもそも椅子を何故保持しているのか」
「そりゃ俺の椅子だからさ」
「頭に載せてなくても、せめて目の届く場所に置いておけば、誰も盗んだりしないだろう」
「いやそれじゃ俺の椅子かどうか分かんなくなるだろ。ーーあんたが今座ってる椅子な、そこは昨日は木樵のゲンが座ってた。うちに置いてある椅子は誰のものでもない。みんなの椅子なんだ。みんなの椅子と俺の椅子は違うだろ」
「特別な椅子なのか」
「これか(と頭を指差して)? いや、あんたが座ってるのと同じやつだよ。同じ時にまとめて仕入れた」
「あなたの椅子とは何なんだ」
「俺の椅子は俺の椅子、俺の席だよ」
「質問を変えよう。何故椅子を担いでる人とそうでない人がいるのか」
「それは席をとってるかどうかだろ? まだとってない人だって、そりゃあいるさ」
「その人たちは何か足りなくて席を得られないのか」
「? 言ってる意味がわからんが、席がある奴はあるし、ない奴はない。ない奴もそのうち席をとれることもあるし、ずっととれないこともあるかもな」
「最後に一つだけ訊かせてくれ。何故あなたたちは被ってる椅子に一度たりとも座らないんだ」
「まだ始まってないうちから席に着く奴があるかよ」
皿もパン籠も陶器の瓶に入ったビールも空になり、腹は満ち足りたが、会話の内容は満足とは程遠かった。
月が高くから夜道を照らし、手持ちのランプを消しても歩けるくらいだった。
宿まで戻る近道と教わった複雑な路地の途中に、細長い三角形の広場があった。中央に質素な台座に載せられた神像があり、その周囲の10数本の蝋燭に火が灯されて、像の顔をむしろ凶々しく浮かび上がらせている。
その像の近くに差し掛かったところで、老人が前方から現れた。例によって椅子を担いでいる。会釈をしてすれ違うと、背後でトンと椅子を下ろす音がした。振り向くと老人は満面の笑みを浮かべながら、非常に緩慢な動作で椅子に腰を下ろした。
その瞬間、広場の3つの角に繋がる路地から、黒装束の男たちが一斉に走り寄ってくる。私の後方から出現した連中は危うく私を突き飛ばすかの勢い。全部で6人か。まっしぐらに老人を、老人の椅子を目指して走り、近付いたところで一斉に姿勢を低くして、掬い上げるように椅子ごと老人を持ち上げた。かと思うと瞬時に同じ方向へ走り出し、私が広場に入ってきた路地の方へと老人を連れ去った。
あっという間の出来事だったが夢ではない。遠ざかる足音もちゃんと聴こえていた。
私はしばらくの間無人となった広場に佇み、老人の笑みを思い出していた。ふと寒さに気づいて歩きを再開し、椅子を担ぎ続けている人達がそこに座ることの意味を朧げに理解したような心持ちで、宿の扉の門を叩いた。
昼過ぎまで歩き詰めだったし、先ほどのビールもなかなか度が強かったのだが、妙に眼が冴えて眠れなかった。
ベッドに横臥して、小窓から差し込む月明かりが床に照らし出す四角い舞台を眺めている。時々月の前を雲が横切るのか、舞台の照明が不安定になる瞬間があり、それが頭の中で掴めそうで掴めない解答のように感じられてもどかしさを誘う。何か重要なことを忘れているような焦燥が頭をもたげた時、部屋のドアがノックされた。
「お待たせしてしまいましたか?」と言って、私が起き上がるより早く自分でドアを開けて入ってきた、やはり椅子を頭に載せた小柄な人影。枕元の灯りに火を入れると、赤らむ光が照らしたのは昼に川沿いで見かけた少女だった。
質問すべき言葉がうまく見つけられずベッドの上に座ったまま立ち上がれないでいると、少女が大義そうな動きで椅子を床に下ろし、私は思わず声を上げてしまう。
「ここに置いちゃダメでした?」
「いや、そうではなくて、椅子、下ろしてもいいんだな、って」
少女は本当に可笑しそうに声を上げて笑い、
「椅子を持ったままじゃ私、できないですよ」
「できないって、何を」
彼女は笑顔のまま近づいてベッドの私の横に腰を下ろし、ぴたりと身体を寄せて、
「そういうことを女の子にわざと言わせるのが好きな人なんですか」
と艶を混ぜた声で囁くということは、彼女は娼婦なのだろう。
半袖の先の露出した前腕部が私の太ももに触れ、その磁器のような滑らかさと冷たさに、欲情はいとも簡単に喚起される。
昼間に見たあどけない笑顔は、閨中では経験豊富さを思わせる蟲惑的な笑みに上書きされ、寂しさと興奮とを同時に感じながら、私は客としてのマナーを守って楽しんだ。すなわち彼女の進め方に従って、達するべき時に達した。
料金は宿代に含まれていると聞いて、なるほど随分と相場より高く感じたのはそのせいかと納得したが、私が「予約した」ことになっているのはどういうわけなのか、彼女に訊いても要領を得ない。宿の主人に(椅子のことを尋ねる流れで)彼女のことを見たと話したからか、それとも彼女に最初に会った時の会釈で予約は既に成立していたのか。
正直なところ行為の間に料金について算段していた私は、少し得をした気分になり、また単純に彼女が私の好みであったこともあって、少しチップをはずむことにした。そのせいだと思いたくはないが(そのせいなのだろうが)、彼女はその後もベッドに同衾し続けて、私の話を興味深そうに聞いてくれた。
私はそれが金銭によって生まれたサービスであると頭では理解しながらも、若く可愛らしい女性が的確な相槌と少し大仰な反応を返してくれることに完全に調子に乗ってしまう。修験道者たちとの水場争いや、黒い蜂蜜舐めとの死闘、賭け事、盗掘、翼竜での飛行など、随分と誇張しながら今までの旅を語り聞かせた。最後には「旅はいいよ、君も一度は旅に出るといい」などと説教じみた言葉を放つ始末だった。
彼女が寒くなってきた、と床を出て服を着る段になってやっと、私はこの村の椅子についての疑問を思い出した。
「さっき、椅子に座った老人が、すぐさま黒い男たちに運ばれていくのを見たんだ」
彼女はにこやかなまま表情を変えず、ただ頷いて私に続きを促した。
「ーーあれは、どこに連れていかれるのかな」
「山よ」
「それはつまり、死ぬということ?」
「死ぬかどうかは分からないけど、もう村には戻ってこないわ。でも、席があるんだから大丈夫よ、心配いらない」
彼女は笑って私を安心させようとするが、もとより私は老人の心配などしていない。椅子に置いてあった服を順に身につけていく姿を眺めながら、私は椅子に座ることはやはり死或いは限りなくそれに近いものを意味していて、椅子を持つ者はいつでも自分で結末を迎えられるのだと了解した。
すると、服を着終えた彼女が何気なく椅子に座った。
私は声にならない声を上げてしまう。
彼女は今夜一番の大声で笑って、
「大丈夫よ。ほら、黒い男なんて来ない」
座面の前部に両手をかけて、その脇から出した両脚をばたばたと振りながら子どもをあやす母親のような調子でそう言う。
私はその姿に再び魅了されてしまう。
「私たちはね、この仕事を始める時にみんな、椅子をもらえるの」
「どうして?」
「準備完了ですよー、いつでも席はありますよー、もう何か別のできることを探さなくていいですよー、ってことかしら」
それはつまり彼女を売春という業務に縛りつけるということだろうか。私は愚直なまでの憤りと哀しみとを感じて、よく言葉も吟味せずに
「そんなふうに人生を諦めなくても」
と言ってしまった。
最初にであった時から、濃淡の差こそあれずっと笑みを絶やさなかった彼女がすっと真顔になった。笑わない彼女は今までになく美しかった。
「諦めてなんかいない。早く気づいただけよ。ここで準備を終えるんだ、ってね。あなたは旅に出ろと言ってくれた。ありがとう。でも大きなお世話です。私はここから動かない。それで構わないの。それより私はあなたのほうが心配だわ。さっき言ってたでしょ、旅の終わりも決めていないって。まだ何も準備できてないどころか、しないといけないこともわかってなさそうなんだもの」
私はベッドから裸のままで立ち上がり、椅子に座る彼女の前で、灯が彼女の影を壁に投げかけているのを眺めていた。影は大きく色濃く揺らめきもせず、堂々と私を見下ろしていた。
私は全てが恥ずかしくなった。浅はかな旅の自慢話、彼女を金で買ったこと、醜い裸体を晒し続けていること。
「“ここと今からは逃げられない”、私の好きな詩人の言葉よ」
すっかり笑顔を取り戻した彼女は、去り際にそう言った。
私は今からではもう得られそうにない覚悟について、考えていた。
inspired by “Los Caprichos” GOYA
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