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転送(全)

 まただ。
 またフランス人だ。 クリスマス週間直前でごった返す、帰還用ターミナル2階。シミズの乗るはずだった便だけが理由も無く「欠航」となっている。モニターは数ヶ国語でMF402便の状況を伝えるが、意味は全て同じ「お前らは今日は地球に帰れない」。
 どうせまたストだろ。だからフランスの会社は選びたくなかったんだ。あいつらは自分の権利を主張し続ける事が近代的な態度であるとはき違えている自由乞食だ。 シミズは自分と同じ様に恨めしげにロビーのモニターを見つめる人達の横顔を見つめ、一人と目が合うが、今生まれているシンパシーが状況を何ら改善しないことを悟り、曖昧な笑顔でそこから去る。
 今日、月から帰還できる便は他に3本。手元の端末で調べるまでも無く、既に満席だ。リアルタイム案内の「キャンセル待ち」がどんどん増えていくのが笑える。キャンセルするものなど、いない。今日ここで突如命でも落とさない限りは。 しかし、クリスマスに家族で暮らすことなど、どうでもいいじゃないか。こっちは一生に一度の事なんだ。今日帰らないとマズい奴ランキングで、このターミナルで俺は確実に上位に入る。揃いも揃ってくだらねぇ土産なんか買って、そもそもお前ら何しに来たんだ。ただの観光の奴らなんかは俺に席を譲るべきなんだ。こっちは来たくもないのに仕事でしょうがなく月くんだりまで来てやってる身分なんだぞ。 別の地球行き便の発射場所に向かうシャトルのドアに吸い込まれていく幸せそうな客達を呪いながら、シミズはふと、金勘定を始める。

 ’30年代に開発された物質転送機は、この世界の流通に革命を起こすと言われていた。物質の構成要素をスキャンし、情報化し、送信し、再構成する。誰しもが世界のあらゆる隔たりの急激な縮小を疑わなかったが、実際には物質の転送先(アウトプット)の装置が大掛かりになりすぎ、転送機は実用化に至らなかった。  しかし2年前、転送物を「人間」に限ることで、転送先の再構成システムを簡略化する画期的な装置が開発された。人体の構成要素が限定されていることと、構成パターンも似通っていることが実現可能にした技術だという。 衛星までをも行動範囲に取り込んでいた人類は、この発明に飛びついた。

 「重力豚のフィレステーキ」は選択ミスだった。地球にいるときと同じ感覚で、メニューの字面から実物を想像して注文すると、だいたい失敗する。何故俺は同じ失敗を繰り返すのかとシミズは自問しながら、地球と同じ重力設定下で育てられたことになっているという、月育ちの豚の後足肉の臭くてしつこい脂分についにギブアップした。
 恐らく脚が萎えてしまっていて、ろくな運動もしていないであろう養殖豚の、頼りない筋繊維の合間にビッシリと詰められた脂が皿に流れ出し、冷えてどんどん固形化していく。
 恒常的に食料が不足する月にあって、食事を残すというのは非常に珍しい行為だから、給仕係の人間もシミズの体調を心配する質問をしてくる。口に合わないなどと言って、グルメ気取りかと軽蔑されるのも嫌なので、シミズは話を合わせて気分が悪いことにする。 さげられていく皿を見て、確かにもったいないが、今から俺がしようとしている浪費に比べたら大した事はないと、シミズは自分に言い聞かせる。

 転送装置の使用コストは、月-地球間の1等往復正規運賃の30倍ほどと、高額に設定されている。 しかも、転送といっても、申し込んですぐに地球に飛んでいけるわけではない。順番待ちもあるし、申し込み完了後も審査で結構な時間待たされた後に、医学的検査→本人同定及び入国審査→一次スキャン→転送先受け入れ態勢確認→二次スキャン→体調の最終確認→本スキャン、という長い道のりを経て、やっと転送に至る。この間、平均で19時間かかるという。38万キロの距離を宇宙船に乗って帰るのと、ほとんど変わらない。
 しかし、それでも、転送装置を使う人達は絶えず存在する。

 「これより先は、付人・介添人の方々はご遠慮願います」の指示通り、SPらしき者達が一次スキャン待合室から出て行かされる。残された政治家だかなんだかの親爺の他には、ラフな格好がいかにも過ぎる月ベース系新興企業のビジネスマン(だろう、たぶん)、どこかで見た気がする女性歌手、そしてシミズ。その4人が長い審査を終え、実際の転送工程に入ったことになる。申し込み時よりも人数が明らかに減っているのは、審査で落ちることがあるのか、途中で見合わない金額を支払おうとしていると冷静に気づいた奴がいるのか。
 財力という点では4人の中でダントツに劣るであろうと、シミズは自嘲するでもなく、冷静に分析した。これは普通の勤め人である俺には明らかな浪費だ。
 妻は怒るだろうか。いや、呆れるだけか。シミズは予定日より早く入院することになった、連れ添って5年の妻のことを思う。 人間転送は、コストが高いだけではない。そもそも審査が厳しすぎるし、審査に落ちる理由も明示されない。また、長い検査・審査・待ち時間の間、非人間的な扱いを受けることもしばしばだと、体験者が書き込む掲示板には記されている。曰く「自分を荷物扱いにして箱に詰めて送ったほうが楽だし安かったのではないか」。
・流れ作業的な工程の中で、座ることも、ましてや眠ることなど許されなかった。
・スキャン中は全身の表面に、強い嫌悪感が終始まとわりつく感覚があった。その感覚は今でもはっきりと蘇ることがある。
・転送後、体内の一部を置いてきてしまったような喪失感に悩まされる。
・転送後に持病が完治した。
・なんらかの記憶を失った気がする。
など、掲示板には匿名の真偽の判然としない書き込みが溢れている。
 所詮は無責任な匿名の書き込みだ。或いは、こういった書き込みも一定の淘汰が為された後にこうして俺の目に入ってきたわけだし。或いは、転送事業者が何らかのリアクションを見せていない時点で取るに足らない噂話ということかも。或いは、しかし。
 などと、二次スキャン前までは手元に持っていられた端末から得た人間転送の負の情報に、少なからず不安を増幅させていたシミズだったが、端末を取り上げられてからは不安も不自由も特に感じることなく、スムーズに本スキャンにたどり着く。
 ただ一つだけ、最初の待合室以降は単独での行動を強いられていたシミズは、生身の人と全く会わないことに、居心地の悪さは感じていた。スキャンなども音声案内に従って、装置の中で行動するだけだし、各工程の間の待ち時間も、居心地は悪くない部屋だが、完全に孤独な軟禁状態を強いられる。
 だから、本スキャンの装置に入る前に、係員の姿を見つけた時は、シミズの頬は思わず緩んだかもしれない。
 スキャンは数段階に分けて行われるが、実際の転送で使用するデータは、最終の本スキャンのみで採取される。 装置は直径5メートルほどの完全な球状で、被スキャン物はその中に入る。入ると同時に触媒液が装置を満たしていくわけだが、そうなると当然中の人間は呼吸ができなくなる。しかしスキャンは内部が満たされてから約15秒後、対象物の鼻と口を液体が塞いでから25秒以内には終了する。その後速やかに液体は排出されるので、問題はない、という話になっている。
 「先に預けた荷物は別送。あとで届く。服は全て脱ぐ。最後まで身につけていた服などは処分する。」 事務的と形容するにはぶっきらぼうすぎる、悪意すら感じるような係員の物言いに、シミズは動揺するが、たじろぎを悟らせると負けのように思え、敢えて軽口を叩く。
 「今日帰らないと、俺の遺伝子の半分をコピーしたヤツが、もう半分のコピー元から這いずり出てくる瞬間に立ち会えないもんでね。」
 照れ隠しを装って、もって回った言い方で期間を急ぐ理由を説明してみるシミズに、しかし係員は無表情と無言を貫く。
 肩をすくめる動作も虚しく、シミズは全裸になり、装置に向かう。装置は赤道部分で上下にパカリと分かれていて、脚立を使って装置下部に縁の部分から入っていく。 外側もそうだったが、内側から見てもシンプルなつくりで、ボタンや計器どころか、突起ひとつない。 何の前触れもなく、装置上部が降りてくる。何らかの感慨を感じようとするが、それらしいものが思いつかない。水平方向の光の線が細くなり、一瞬煌めいて消える。後は完全な闇。液体が足もとを濡らし始めるのを感じる。意外と粘性がある気がする。基本的に人間とそのテクノロジーを信頼しているが、どうしても恐怖を感じてしまう。無心になろうとする。昔観た前世紀の映画を思い出す。重厚な声で、死の瞬間までのカウントダウンをしていくラストシーン。

 技術的にはスキャンに時間をかける必要はない。
 特に生物の場合、その組成は一瞬ごとに変化しているから、寧ろ時間をかけてしまうと計測のブレが生じてしまう。
 ただ、人間の転送に関しては、非常に時間をかけてスキャンが行われる。
 間違いが起こらないように。
 じっくりと。
 十分な時間をかけて。

 数十秒ぶりに息を吸うより前に、外から光が差した気がする。酷い二度寝をしてしまったと起きて時計を見ると、実は5分と眠っていなかった時のような、曖昧な時間感覚とともに、いつの間にか閉じていた目を開く。 転送元の装置と同じ物に入っていることに気づく。 お椀の中のみそ汁の具のようになっているシミズは、泳いで装置の縁までたどり着く。 さっきと同じ脚立。 そして、同じ係員。 転送先が同じ形の装置である可能性はあった。しかし、係員も同じはずはない。 失敗したのか? この状況ではさすがにあの無愛想なヤツも、何らかの説明を施すに違いない。脚立を駈け降りたシミズは、まず嫌みの一つでもと口を開こうとした瞬間に、その胸を撃ち抜かれて死ぬ。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆ 

 「たまに生きてるヤツが居るから困る」 確かにカネはいい。しかし、たまにこんな風に、自分で手を下さなければいけない時がある。 当たり所によっては、一人の人間の体のどこにこれだけの血液が入っていたのかと思うほどの血が噴き出す。その血を拭くのも俺だ。
 うまいこと装置の中でおっ死んでてくれたとしても、その水死体を片づけるのだって楽じゃない。詳しい事はよく知らねぇが、ドザエモンを作るのに使ってるのが、どうも単なる水じゃないらしく、やたらとテラテラしてて気持ちが悪い。パンパンに膨れ上がってるくせに、口の中でゴボゴボうがいみたいな音を立ててるだけで、なかなか水を外に漏らそうとしない。ただ耳からだけ、ジットリと垂れるように少しずつ排水してきて、それがまた気持ち悪い。
 この間横に寝ていた女が、この「うがい」と同じような音のいびきをかきやがるもんだから、ぶん殴って追い出してやった。生理的にダメなんだ。あれは今思い出しても殴り足りないくらいムカついた。
 シミズの驚いたような死に顔をモップで殴りつけて憂さを晴らしつつ、そもそも装置が欠陥品なんじゃねーかと愚痴りながらアマミヤは処理を始める。

 転送先にデータを送信した後、転送元に残ったスキャン対象は、始末しなければならない。そうしないと、同じ人間がこの世に2人存在することになってしまうからだ。もちろん、転送先の人間は健在なので、これが殺人に当たるかどうかは判断の難しいところだ。どちらかというと、転送された本人にとってはありがたいアフターサービスのはずなのだが。
 万が一法的に殺人という解釈をとられてしまうと、いくつかの解決すべき政治的問題が生じるため、この「後処理」については極秘とされている。このご時世でも、人道主義的なお題目を掲げて活動する輩たちがまだいる。それで自らを利するならば、海棲哺乳類どころか軟体生物さえも殺すなと主張できるのが人間だ。そういう者どもに目を付けられると、黙っていただくためのそれなりの努力が必要となってしまう。
 当初はスキャン用の電磁波の影響で、スキャン元の人間は命を保てないだろう、と考えられていたようだが、健康への悪影響が発現するまでに時間がかかりすぎるため、「処理」が必要となってしまった。
 ただ、転送機の原理を知っていれば、「処理」が必要なのは、さほど想像しづらい事実ではない。多くの人がうすうす感づきながらも、指摘して面倒な事実を炙り出すことの無意味さにも気づいているということなのかもしれない。

 「悩みの元は明かせないが、俺は悩んでいる。」
 こんなヤツがいれば、ある程度の愚かさには寛容な酒場でさえ、鼻つまみ者として扱われるのは当然だ。それはしょうがない。しかし、俺が俺の仕事について喋ると、体内に仕掛けられた何かがどうにかなって、死んだりするらしい。秘密を守るためにそうなっていると説明された。死ぬのも怖いが、その死に様のみじめさも怖い。だから俺は何かを仄めかすだけの愚痴を並べ立てる厄介な客になっている。と、アマミヤは自覚はしている。
 月では高い酒がさらに高くなる。カネだけはあるアマミヤは、普段は話すこともないようなお高くとまったヤツらと、酒だけは同じようなものを飲める。自分が場違いなことで逆説めいた加虐心を満たすことができる酒場が、アマミヤは好きだ。
 いくつかのエステルを加え、古式蒸留を再現したかのような雑味を引き出したポットスチル風ウイスキー、とやらを、ありがたそうにちびちびやっているヤツらを横目に、モノホンのスコッチ旧ボトルを一息で空けてやるのだ。
「図書館に行くといい」
 最後の良心を絞り出して、アマミヤの3回目の「ラスト1杯」を丁重に断りつつ、マスターは助言する。
 アマミヤはもちろん、字が読めない。が、図書館とやらがあることは知っている。
「あれはお前、精神病院みてぇなものなんだろ」
 会計を済ませたアマミヤに、もう答える義務はないとばかりに沈黙が返ってくる。

 かつて図書館という場所は、断片的で未整理な情報資源をただただ収集していただけの場所だった。前世紀においてはデジタル化さえされていない情報を、「書物」という非効率な出力形式で蓄積した物体、その物体自体の集積場だったという。
 「書物」はその一つ一つが別個の人格によって編まれており、情報の確度や密度、伝達方式に大きく差があった。
 その書物の中に、「しょうせつ」と呼ばれるもの達があり、おそらく伝達方法の一分野を総合的にカテゴライズした言葉だと思われるが、これらはその特殊性で他の書物と一線を画している。
 端的に言うと客観的な情報の伝達を目的としていない書物であり、そもそもその情報自体が不正確、というより完全なつくりごとであることがほとんどであり、おそらく情報受容者を情緒的に刺激することを主眼として編まれていたものらしい。
 虚構情報による情緒的な刺激、という理解しがたい現象は長く忘れられていたが、昨今この分野の研究が一気に進み、その結果として生まれたのが現在の「図書館」ということになる。

 「話が長ぇ!」
 アマミヤは机の向かいに座った「司書」の女性にキレてみせるが、もちろん司書はプログラム通りのヒアリングを進行するだけなので、何の意味もない。
 まさか生まれた場所から聞かれるとは思わなかった。今の仕事の愚痴だけ簡単に話せば、何か知らない方法でうまく俺をハイにしてくれるんだろ、程度の認識しかなかったアマミヤは、1時間も前からうんざりしていた。
 この椅子になんとか彼を繋ぎとめているのは、ここまでに使ってしまったカネと時間、今やめたらその二つがもったいないという貧乏根性だけだ。仕方なく、司書の質問に丁寧に答えていく。雑に答えると、一旦質問がもう少し抽象的になって、3問くらいして結局同じ質問をされる、ということに気付いたからだ。就業規定違反にはなるのだろうが、自分の仕事についても、口止めされていない点については正直に答える。
 さして広くない部屋に不釣り合いなほど高い天井。その縁まで届く高すぎる棚に入っているやつが、恐らく「書物」という奴なのだろう。ただ、それを背にするこの司書と同様に、すべて単なる立体映像なのかもしれない。いずれにせよ、居心地のいい空間ではない。
 責め苦のようにいつ終わるともしれない質問の洪水を浴び、アマミヤは自らの過去を洗いざらい吐露させられていく。

 「しょうせつ」の人体に与える影響についての研究は、この書物が隆盛を極めていた前世紀には既にその端緒を開いていたようだ。「しょうせつ」を読んだことのない人間を探す方が珍しい時代もあったというから、学術的な研究対象となるのも当然だろう。
 ただ当初は、古今東西の膨大なテキスト群を単に分類する、或いは任意のテキストを個人的な尺度で分析する、たいそうに「言語芸術」と定義してその構造上の美点を指摘する、など、お世辞にも本質的とは言い難い研究が主流だった。
 なぜ人間の脳は、物語というフレームを使わないと、現象の把握すらも難しくなってしまうのか。現在では常識であるこの脳の脆弱性に、当時の研究は注目すらしていなかったのだ。

 「一番高いヤツだ。高級なヤツ。」
 3時間かかってやっと解放されそうだ。司書の女が話を聞きながらメモを取る体で握っていた筆記用具を手放し、「今、あなたのためのしょうせつが書き上がりました」と告げた時は、既にそのことだけで感動してしまいそうだった。
 「アウトプット方式はどうなさいますか。たとえば…」。これ以上時間を取られてたまるかとアマミヤは話を遮って、値段が高けりゃいいのだろうと出力方式を指定した。
 「となりますと、豪華皮装版のアナログプリントになりますが、失礼ながら文字列読書の経験はございますか?」質問の意味も分からないとアマミヤは適当に相槌を打ち、他人に読ませないでください、複製しないでください、手放さないでください……などの長ったらしい注意事項をまるきり聞き流して帰り支度を始め、自動的に開いた机の引き出しに置かれていた紙の束を革でくるんだ物体をひったくって出て行く。

 我々が諸々の事柄の認知において、既にインプット済みの「物語」を敷衍してあてはめ、認識の助けとしていた事、そしてその事によって、重大な誤謬の元となる認知バイアスが生じていた事は、過去の人類の愚かさの代名詞として、現在は広く知られている。
 しかし、今世紀初頭においてもまだ、そういった誤謬とそれに基づいた判断は、常識的に行われていた。
 曰く、「成功のためにはどんな人間も努力が必要である。」
 目標への努力→成功、という物語は圧倒的にメジャーなものとして刷り込まれていたため、個々人の能力の多寡に関わらず、努力は必須なものであるとする誤謬。
 曰く、「その人(他者)の立場になって、どう感じるか考えてみよ。」
 もし私が被差別者だったら、などという反実仮想を基にした論理構築で、情緒的に他者への差別や攻撃を悪と規定する誤謬。
 もう笑うしかないような誤謬もある。「報い」という言葉で、完全に独立している事象同士に、オカルトとしか言えない非合理な因果関係を敢えて自ら規定し、現在の不利な状況の説明としていたというものだ。
 現在我々は、ある程度は物語から自由になり、合理的な判断・行動を採用できるようになってきている。
 とはいえまだ、月において意図的に地球と同じ重力状況下で育てた家畜の肉を、その飼育法による化学的組成の変化以上に、美味になっていると感じたりする。味覚や嗅覚は特に、相互に混同する事も多々ある曖昧な感覚であるためか、認識に物語性が混じり込みやすいらしい。
 物語フレームから完全に自由になることは、脳の構造上不可能だとも言われている。
 しかし我々が、必要以上に物語に縛り付けられていた時代から比べて、明らかな進歩を遂げたのは確かだ。

 結局二度手間になった。
 本とやらを開いて2、3行目を通してすぐ、自分には解読不能なものだと分かった。自分が普段使うことばと同じ言語を使用してはいるが、メールや仕事上の通達などと違い、必ずしも情報を簡潔且つ正確に伝達することを目的としない文章は、慣れないアマミヤにはハードルが高すぎた。
 質問攻めに遭った疲れから、とりあえず落ち着こうと入った適当な酒場を1杯で切り上げ、その足で図書館に戻って「もっと読みやすいものをよこせ」と申し出る。
 説明を聞こうともしなかった自分の失態が原因であることが、アマミヤの苛立ちを加速させ、大きな声を出させた。
 どういうサービスなのか、先ほどとは違う女性のビジュアルをした司書は慌てもせずに、「それでしたら文章のリズムとしての美しさはやや損なわれる可能性がありますが、不明点があった際に適宜逐語訳的ガイドの入る音声出力ver.でいかがでしょう」と最も“読みやすい”物を推薦する。意味も分からねぇし、言うとおりにするだけだ。
 最後に司書に、念のためお渡しした小説は廃棄されることを強く勧めますと言われても、豪華皮装版とやらはさっきの酒場に置いてきてしまっている。いずれにせよ、もう捨てられているだろう。あんな物を読める奴がいるはずもない。

 認識・判断において「物語フレーム」を遠ざけることに成功した我々は、必然的に「しょうせつ」を理解することが難しくなった。すべての「しょうせつ」が、その構造において物語形式を採用していた訳ではないが、細部の表現などにおいて、物語性を一切無視して作られたものはない。そのように書かれた物を理解するには、我々は進歩しすぎたのだ。
 そうして忘れられていた「しょうせつ」に光が当たったのはごく最近のことであり、物語が脳に与える好影響の研究は、諸説入り乱れている段階で、いまだ学問として成立しているとも言い難い。
 一説には、現実とは全く別の世界が描かれているものを読むことで、一人の人生に限定的な可能性しか与えられていないことへの絶望を和らげてくれる、とか。
 あるいは、必然的に個人に降りかかる理由のない不幸を、物語のせいにできることが救いになるのだ、とか。
 いずれにせよ、しょうせつを読むことが一種の精神的なセラピーになることは臨床的成果で実証されており、人間の最も壊れやすい臓器である脳を不可逆的な破損から守るべく、図書館は設立された。
 司書(入力装置)に自分の状態および記憶等を申告すると、今まで描かれた物語の膨大なアーカイブから、構成、筋立て、文体などの必要な要素を組み合わせて、オリジナルのしょうせつが作り出される。依頼者は自らの悩みや痛みが美しい文章で描き出されているものを、客観的に読むことによって、精神的苦痛が昇華され、相対化され、解決に近づけるとされている。

 地下鉄で図書館から帰る途中、隣に座った老人のハンドクリームの臭いが気に障ったから殴った。24種のアレルギーをもつ自分の前で、鼻を刺激する臭いを発するなんて、常識がなさ過ぎる。老人は殴った時の手ごたえがなま軟らかく、それがまた不快で怒りを増幅させる。
 結局5発ほどくらわせて、それ以上殴るのも面倒臭くなった。倒れて物も言わなくなっている老人が首から下げた汚らしいIDカードを引きずりあげ、端末を近づけてカネを振り込んでやる。
 年金システムは正常に作動し、相応額がアマミヤの口座から老人に払い込まれた。
 それを確認したアマミヤがつかんでいたIDを手放すので、首を支点に持ち上げられていた老人の体は俄かに床に叩き付けられる。力の入っていない頭がゴブッという音を立てて落ち、首がおかしな角度に曲がる。
 死んだかもしれねぇが、振り込まされた額からすれば問題ないだろう。まったく、老人を飼っていく世の中ってのも大変だ。と、アマミヤはため息をつく。

 驚くべきことに、80を過ぎた老人と、20代の若者が、同じだけの政治的権利を有していた時代があった。長く見積もっても余命が10年に満たない人間と、まだ50年は生きなくてはいけない人間が、まったく同等の権利を与えられていたのだ。
 これなども「年長者は社会において(制限なく)尊重されるべきである」という根拠のない「物語」に人類が如何に捉われ続けていたかを端的に示す証左といえよう。
 その歪みはもちろん顕在化した。基本的にごく近い未来の事しか勘案していないような政策が採用され、将来的に予見される環境汚染などはそのリスクを異様なまでに軽く判断され、労働する力を失った老人を生き延びさせるために若い世代から搾取する法案が当然のように可決された。
 さらに、その制度は世界的に共有されており、そこから生まれる歪みが完全にどうしようもない状態に陥るまで、長い時間全世界で採用され続けてきた。
 代議員選挙等の投票において、平均余命から年齢を引き、その数を個人の持ち票数とする。そんな原始的な制度でさえ、施行に至ったのは今世紀中葉である。今では年金と人権の交換制度が整備され、就労能力のない老人に社会的矛盾やストレスの直接的・間接的はけ口としての地位を与えることで、共存関係を確立することができている。

 端末から先程の老人の血を拭き取り、インストールされた「しょうせつ」を立ち上げる。
 骨伝導音声刺激が自分とは全く別の人間の冒険譚を語り出す。地球の話だ。氷期に入った地球の北半球、緯度の高い場所。飢えと寒さ。圧倒的孤独。狩り、必要な殺戮。常に何かに追われている。見えない追手。犬橇での旅。巨大な遺都へ。得体のしれない建造物――。
 初めは、今自分が居るこことは時間的にも空間的にも異なる場所での話に、なかなか慣れることができなかった。もってまわった表現や、結論を表明しない物言いに、まだるっこしさを感じるだけだった。
 しかし、全貌をなかなか現さないその世界が、次第に輪郭をもって現出してくる様に惹きつけられるようになり、どうしても先を読む気にさせられてしまう。そして何より、そこに描かれている人物が、まるで自分と同じように確固たる自我を持って存在しているように感じられる事に驚いた。
 地下鉄の停留所を出て、自宅へと歩く途中も、アマミヤは夢中になって読み続けてしまう。クソ忌々しい事に、現実に引き戻されたのは、家に入って不具合が生じたメイドの処理をしなければいけないことを思い出したからだ。もちろんメイドの奴は不具合ではないと言い張るが、アマミヤの意のままに行動しなくなってきたのだから、不具合以外の何物でもないだろう。
 こんな時に、仕事で使っている銃がありゃあなぁと思う。死体の処理は清掃局に任せられるが、生命活動を終わらせるのは、持ち主であるアマミヤ自身が行わなければならない。プログラム上、抵抗はしないが、一人の人間を絞殺するのはハンパない労力だ。アマミヤはしばらくの間、「しょうせつ」の世界から離れることになる。

 ロボットに人工知能を搭載して、人間の奴隷として扱おうという研究開発が行われていた時代があった。複雑な人間の脳を、機械的に再現できると信じていたのだ。
 そこまで愚かではなかった人間はもちろん、複雑なAIの開発より、人間の脳をいじってロボットとしての自意識を持たせる方が楽だということに気が付いた。自分達が産みだす自分達のコピー以上に、奴隷に相応しい者はいないのだ。
 当然すぎるその結論にたどり着くまでに時間がかかった事にも、人類が「物語」に捉われていた影響があるのかもしれない。
 もし自分がその「奴隷」として生まれたら…、などという有り得ない妄想のような仮定をもとに、「ヒトとして生まれたどんな生命も平等に扱わなければならない」などと思い込んでしまっていたのだ。自分が自分として生まれなかった時の世界、という仮定に、論理学的にまったく意味が無い事を、どうしても理解できなかったらしい。

 自分以外の何者かが、自分と同じように考え、想い、悩み、目論み、世を呪っているなどと想像した事なんて、今までなかったことだ。現実世界に存在する他人についてもそうであったアマミヤが、実在しない「しょうせつ」の中の人物に対して、自分と同じような存在だと感じている。
 それは奇妙な感覚だったが、不快ではなかった。
 物語の続きが気になるという事よりも、その奇妙に晴れ晴れとした感覚を味わいたくて、アマミヤは清掃局へ連絡するも忘れて、メイドの死体を床に放置したまま読み続ける。
 今まで周りが全部壁の、扉のない空間に住んでいたような気分だったが、上を見ると「出口」があった、ちょっとキザかもしんねぇがそんな気分だ。自分以外も自分みたいなのがいる、この世界以外にもこの世界みたいなのがある、っていう妄想は悪くない。
玄関脇で腐臭を放ち始めているメイドの死体を細めで見やりつつ、こいつも何がしかの自意識的なものをもっていたのかもしれねぇな、と思う。
 でももし現実にそうだったとしたら…、
「気持ちワリィ」アマミヤは吐き捨てる。

 ある種のしょうせつには、例えば虚構の登場人物の心理的苦痛を、あたかも読み手自身の痛みとして感じさせるような、信じられないような知覚混同効果を発揮するものがあったという。過去に書かれていたしょうせつは、図書館がアウトプットする物とは違い、誰か特定の個人を読者と想定して書かれていたりしなかったにも関わらず、である。
 今でこそ我々は自身と他者を同列の存在として認識するような誤謬は犯さないが、かつての人類は、飼育している愛玩動物や、時によっては愛用している無生物にまでも、自分と同様の人格を設定し、それらに接していたという。まして同種の生物である他者(自分以外の人間)に対しては言うに及ばずで、旧人類は人間社会というものを、自分をそのうちのほんのひとつとした、さまざまな自我がひしめきあった世界だと認識していたようだ。
 なんというグロテスクな世界観だろうか。
 それでいて他者に対して寛容だったかというと、まったくそうではなかった。
 たとえば自分たちと同種の物語フレームで物事を認識しない人間や、同種の「道徳観」という物語を共有しない人間達のことを、一種の障害をもつ者として社会から隔絶した。実際はその種の人間の方が知能が高いことが多いと認識されていたのに、である。

 新たなメイドを購入し、旧メイドの遺体の処理を最初の仕事とさせる。今回はこの前のよりも2ランクほど上の性能をもつモノを選んだ。知的水準の高いDNAを有し、実作業スキルも多く身につけた奴だ。見た目もいい。何しろ、カネはあるのだ。
 今回はカネを使う気持ちよさのために、このロボを選んだのではない。アマミヤは、本格的にしょうせつにハマり出していた。自分の自由にできる時間を、なるべく多くの割合でしょうせつを読むことに注ぎたいと考えたから、雑務を全て任せられるタイプを選んだのだ。
 前のメイドが小便と吐瀉物で汚した床を掃除している新人にアマミヤが口を開こうとすると、「少しでも不具合が生じたら、自らで自らを処理する機能が備わっております。ご安心ください」と先んじた答えを与えられる。
 その利きすぎる機転にほんの少し苛立ちながらも、頭のよさそうな奴が自分に無条件で仕えている情景に、いつも通りの仄昏い愉悦を感じる。

 人類は、完全にとは言えないまでも物語から解放され、より正しい認識/判断能力を得た。まだまだ理不尽で非合理な行動をとってしまうこともあるが、例えば、能力以外の部分で人間を選別する偏見からは自由になった。逆に、能力の差があるにもかかわらず、無意味に同等に扱うような悪習も断つことができた。
 なかでも、モラルという、客観化不可能な習俗的認識から離れられたのは、人類にとって大きな進歩だった。
 時代や地域によって大きく異なっていたモラルが、語としてしか存在しえないことは自明だが、それが生来のものだと信じられていた時代もあった。不倫恋愛のしょうせつがひろく読まれると、実際に倫理に反する恋愛が流行するような時代だったのに、である。
 停滞していた人類は、この進歩によって、機械工学、生物学、物理学、医学など、さまざまな分野でそれまでにない発展を遂げることになる。

 どんなに便利な時代になっても。
 アマミヤは思う。肉体を維持することだけは、人任せにすることができない。
 大腰筋に負荷をかけるエクササイズマシンに腰掛けながら、しょうせつを読み進めようとするのだが、やはりなかなか捗らない。トレーナー役のロボが何か言いたげにこちらを見ているが、もちろん無視する。読むといっても音声をイヤホンから聴き取っているだけなのだが、筋力強化への集中力の低下は明らからしい。
 アマミヤの使っているジムは大型の施設で、今も30人以上の人間が、自らのメニューを必死にこなしているが、有酸素系の運動をしているものでも、アマミヤのように本を読んでいる、あるいは音楽を聴いているような者はいない。観ようとすれば映画も観られる環境なのだが、娯楽とエクササイズを両立させようとする者は見受けられない。基本的に皆自分のエクササイズに黙々と励んでいる。
 肉体が老化したと判定されてしまうと一気に社会における地位が下落してしまうので、頑健さを維持しようとするのは当然のことだ。
 明らかに肉体は悲鳴を上げているのに、依然と同じメニューを無理にこなそうとしている奴もいる。見苦しいことだ。そんな足掻きがより老化を早めたりするのに。
 アマミヤは老化開始と判定されたら、すぐに仕事場で自分の頭を撃ち抜こうと決めている。醜態をさらしたくない、なんていう見栄じゃない。合理的に考えたら、誰でもそうするだろ、って話だ。
 ただ、まだそれはだいぶ先の話のはずだ。

 物語から解放され、不完全で歪んだ認識から自由になったはずの人類が、また物語を必要とし始めている。
 一見これは、大きな矛盾、あるいは深刻な後退のように感じられるかもしれない。が、もともと人間の脳が(良い意味でも悪い意味でも)、非常に不完全なものだということがはっきりした現在、セラピーとしてのしょうせつ利用の研究が進むことは、やはり人類にとっての進歩といえるだろう。
 それは個人の精神衛生上の問題を解決する、単なる手段のひとつに過ぎず、人類全体の認識や判断方法に大きな変更を求めるようなものではない。
 人類は、一種の物語中毒ともいえるような、過去の愚かで誤った状態に戻ってはならない。これは人類共通の認識である。
 偏見から解放された知だけが、人類を前に進めてきたのだ。

 物語はどうやら終盤に近付いてきたらしい。
 伏線は回収され始め、全ての軸となっていたひとつの主題のようなものがはっきりとしてきた。登場人物達はそれぞれの終焉・収束を迎えつつあり、いくつかの作品中で提示されてきた視点がひとつの立体的な像を結ばんとする。
 そしてアマミヤは、作品世界を客観的に眺めて美しいと感じながら、同時に作品の内側に自分も存在するような、極めて混乱した気分を味わうことになる。その混乱は、一種の陶酔に近く、アマミヤは本を手放せなくなる。
 そして最後の日、眠らずに小説を読み終えたアマミヤは、寝不足ながらも蘇生したような快感と共に、その生涯最後の朝を迎える。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 宙港の帰還用ターミナル、旧打ち上げ棟の最上階。
 ここから月の居住区を見下ろすのが好きだ。
 かつては地球へのシャトルを打ち上げるためのロケットが今より大がかりで、そのロケットに寄り添うような形の、この建造物が使われていたらしい。20年以上前のことというから、まだ生まれてもいないボクは、当然その派手そうな打ち上げの光景を見たことはない。
 でも、そんな過去とは関係なく、ここからの眺めは素晴らしい。
 この宙港を中心として円形に広がる居住区の端まで、ちょうどギリギリ見渡せるくらいの高さ。その円形は、内部を中心から周縁へと延びる無数の壁で仕切られている。壁は直線ではなく、ふくらみ凹み後戻りし、いびつなラインを描いて、しかし途切れることはなく縁まで進む。その壁で隔てられた、扇型というにはあまりに歪んだ図形のひとつひとつに、各国民が分かれ住んでいる。
 設計当初は壁などなく、地球上では分かれて住んでいた各国民がそれぞれ混ざり合って住む、そんな居住区が想定されていたらしい。
 そんな醜い虚飾に満ちた時代に生まれなくて本当に良かった、と思う。
 この壁が好きだ。
 棟の最上階、全面を窓で囲まれた直径10mくらいの360°展望室。今は物好きが訪れるだけの、さびれたその部屋の真ん中に立つと、ボクの足から生えたものが根のように曲がりくねって壁となって延びていくような、そんな錯覚を覚えるのだ。世界の真ん中に居ながら、世界のどことも関わりのない自分。

 十数年前、非母国語言語の習得を阻害する要因となる遺伝子が発見された。画期的な発見で、多言語習得が容易になるような新薬の開発などを期待する報道が、当初は満ち溢れた。
 でも、しばらくして生まれたのは、「遺伝子が阻害しているのに、そもそも何故母国語以外の言語を学ばなければいけないのか」という当然の論調だった。
 曰く、異文化間コミュニケーションの過度な神聖視は、そういう「物語」に取り憑かれていただけだ。月居住区を「理想のグローバル都市」として設計したのは愚行だった。確かに、異文化と交流したい/交流する能力のある人間というのは、いつの時代にも一定数存在し、歴史上その種の人間が人類の進歩に有益な行動をしたこともあったと聞く。しかし、それはあくまで一部の、特殊な遺伝子をもった者達の行動であって万人が倣うべきものではないし、停滞と微衰が基調にある現代において、そもそも異文化との交流に大した意味はない。
 そんな論旨だ。
 阻害遺伝子の発見は、異文化と交流したくない人間に(母国語以外の言語を学びたくなどない人間に)とって、一種の免罪符のような働きをしたみたいで、「もともと異文化交流とか言ってる奴はそんなに多くなかった。そいつらの声がやたら大きかっただけ」っていう声も、もはや負け惜しみ的には響かなくなっている。

 ボクは想像する。
 すぐ足下、宙港にほど近い中層マンション。最上階から2階下の1室の灯が点く。メキシコ人が住む区画。午後6時を回って帰宅した彼は、それなりの収入を担保してくれる会社の単身赴任者だろう。家族は治安を心配し、宙港に近いことを第一条件に物件を探していた。彼もその当時は同意していた。仕事場も近い。しかし今は違う。帰宅後に車を15分ほど周縁方向に走らせた場所にある繁華街に通うのが日課になった今は、家族にバレずにマンションを売って、もっと家賃が安く、享楽と安寧を与えてくれる中央広場(ソカロ)に近いアパートに移り住むことを本気で検討している。ほら、すぐ灯が消えた。もう夜の街へとお出ましだ。短い時間しか家にいなかったのだから、スーツのまま着替えていない。今日は商売女じゃない。レストランでの食事から始めてやらないと納得しない程度のプライドはある女とだ。
 ボクは想像する。
 宙港と居住区の端との、ちょうど真ん中くらいの位置。不自然な広さの空き地がある。再開発じゃない。この空地を見つけてから、1年以上は経つ。空き地を覆う緑も、放置されたが故に生い茂った雑草ではなく、綺麗に手入れされた芝に見える。金持ちの道楽? 地球恋しさに始めた牧場? いや、それではつまらない。ここは墓地だ。月面開発の過程では、大掛かりな土地改変実験がいくつもあった。その一つにきっと、大量の犠牲者を出したクレーター外周山脈の崩落実験があったのだ。人工の斜面崩落は愚かな人間の想像をはるかに超える規模とスピードで発生、100名近い関係者が生き埋めになった。責任の押し付け合い、遺族補償での駆け引き、内部機関の緩やかな原因検証、公共事業としての共同墓地の発注。いくつもの世俗的な位相を経て事故は風化し、今はこの墓地だけが残っているのだろう。この場所を手入れする事だけが生きる目的となった哀れな遺族の一人以外には、ほぼ忘れ去られた墓地。
 ボクは想像する。
 居住区のどちらかというと内側よりを周回する環状2号道路。かつてあったという渋滞は、今ではもう起こらない。居住区自体の人口は減る一方だし、そもそも区分けされた居住区をまたいで走るこの道を使う理由をもつ人は、ほとんど存在しない。自分と違う慣習に生き、違う言葉を操る人間と会ってまで為すべき事など、まずないからだ。旧式の遮音壁で囲まれたその道路を走る赤い乗用車。常軌を逸したそのスピードからみると、どうやら手動で運転しているらしい。危ういライン取りでカーブをすり抜け、直線が長く続く所では目いっぱいスピードを上げて。環状道路をあっという間に一周し、しかしまだ止まろうとはしない。どこか目的地があるわけじゃないのだ。車に乗り、それを走らせる事、それ自体が彼の目的なんだろう。ボクはその運転の純粋性に崇高さを感じ、そのドライバーと恐らくは同じ事を祈る。「激しく速やかな死をその身に賜らんことを」
 単なる想像だ。というより妄想。
 それがボクはずっと止められない。この世界にいるたくさんの人間が、自分と同じように個人的な経験をもっていて、その連続した経験を物語化して記憶して、それを「自分」と呼んでいる。
 自分と同じような「自分」が溢れている世界。
 途方もなく気持ち悪く、そしてその途方もなさにしかし、大きな安らぎを感じるのだ。
 逆に。ボクは不思議に思う。
 どうしてみんな世界が一つであることに満足できているのだろう。

 自分が生まれた瞬間の状況や、最初に感じた痛み、初めて言葉をしゃべった時、そんなものは全く彼の記憶にはない。
 まず、ひどくがっかりした。それが最初の記憶だ。
 何に対する深い落胆なのかと問われても、彼はうまく答えられないが、自分の意識のすべてを失望が埋め尽くしていたのは覚えている。彼にとって、自我と失意はほぼ同義語だった。
 他の全ての子どもたちと同じように、母体の中にあるうちに先天性の障害検査をクリアし、問題のない健康体として生まれ、親権者適合試験に合格した両親によって物質的な不自由はさほどない状態で育てられてきた。もちろん愛情も十分注がれたと言っていい。しかし、この世界そのものに失意を抱いているものにとっては、そのような待遇はもちろん救いにならなかった。
 世界に希望を抱いていない子供が通常そうであるように、彼も大人受けのよい子供であるように振る舞った。失意の原因を自分自身に求めることで諦めを自らに強いようとしていた。
 そして彼は第二次性徴期に差し掛かった頃、「しょうせつ」に出会った。

 アクリルの窓から光が差し込み始める。
 地球のいわゆる夕陽に含まれるある種の波長の光が、人間の精神に及ぼす影響はよく知られているが、この人工光もそれを再現している。
 その「恩恵」を最大限に味わうため、ボクは特殊な呼吸を始める。
 最初は薬に頼らないとできなかった。師に教わった一番最初なんかは、場所も体調も万全に調え、それでも音楽の力を借りてやっと、という感じだった。あれから3年くらい。ボクは呼吸だけで「取り戻せる」ようになった。
 「取り戻す」というのは師の言葉で、たぶん原初的に人間が持っていた感受性を取り戻す、みたいな意味なんだろうけど、ボクにとってこれはちょっとした「遠足」という気分に近い。
 もう音楽もいらない。ちょっと苦しいけど、ちょっとしたコツを身につければ、呼吸だけでたどり着ける。
 大理石を模した床材の模様のランダムさ、その奥にある規則的なリズムが見え出すと、そのリズムに呼応するように居住区を隔てる曲がりくねった壁が輪郭を主張し始める。
 成功だ。何かが頭の中で切り替わり、目に入るすべてのものが看過できない崇高さをもっていることに気づかされる。「既知」というラベルを貼って詳細な観測をやめていたもの。「未知」というラベルを貼るだけで棚上げしていたもの。それぞれと「生」で触れ合いなおすことがボクの存在をとてつもない力で揺り動かす。
 そして「夕陽」。特定の波長が視神経から脳を刺激し、過去の記憶が場面ごとのスナップ写真のように時系列を無視して同時によみがえる。その写真の解像度と彩度はどんどん上がっていき、脳が無酸素運動をしているかのような疲弊を感じながら、ボクはその写真を順序良く並べ替えようと無意識に試みてしまう。
 直線的な時間軸の上に並べるというより、因果関係で結びつけてゆく。それは樹形図のように連なっていき、ボクがボクという物語を紡いでいたことを否応なく認めさせられる。
 ボクの足から延びていた居住区を区切る壁はしなやかな曲線となってそれぞれが鞭のようにしなり始め、隔てられていた各居住区は鞭の上下動に翻弄されるようにバラバラに浮遊し、やがて層状に重なっていく。その層のひとつひとつにもなぜかボクがいて同じように足から延びる鞭で空間を切り裂いてさらに細かな層にしていく。
 果てしないほど厚い層の重なりをボクは潜っていく。めまぐるしく色彩と匂いが変化して重なり合った世界をボクはどんどん突き抜け墜ちてゆく。
 息ができず、肉体的な限界が「遠足」の終わりを告げる。

 この世界は絶対に交わることのないそれぞれ別個の世界から成る多層構造を成していて、自分=世界は、その一つの層に過ぎない、と考えることは彼を楽にした。
 しょうせつに触れ、その「層」の厚さを手触りのある実感として獲得できることで、澱んでいた自分の魂が今までになく軽快なものになるのを感じられたのだ。
 しかし同時に、層の一部に甘んじる限り、完全な自由はないことも理解していた。
 心は軽くなったが、満足はできなかった。
 結局のところ、一人には一つの人生しか与えられていない。しょうせつに触れることで、今度はその当然の事実が彼の心を苛むようになった。

 通常の感覚を取り戻すための細かな作法を順序良く行って、ボクはまた元いた場所に「戻って」きた。
 今日もそんなに深くまでは潜れなかった。潜れば潜るほど、ボクの想像力は刺激され、妄想が捗るようになるんだけれど、最近はそれも頭打ちだ。別の方法が必要なんだと思う。
 ボクは端末を起動して、今はあまり使われていないあるローカルなネットワークから一つの場所にアクセスする。
 そこは「古書街」と呼ばれていて、非合法なネットワーク上の空間だ。
 扱われているのは有史以来人間が書き紡いできたしょうせつ。物語性のある文字列をネットワーク上でやりとりすると当局に簡単に察知されるので、古書街で行われるのはあくまで取引のみ、実際のテキストは出力された物体として手渡しで納品される。
 地下でこうしたしょうせつの取引があることは、実際ある程度は知られてはいる。当局も黙認している部分もあるのだと思う。ただ、今回アクセスした古書街は、今までのところとは別物だ。
 「図書館」の本を扱っているのだ。
 つまり、今生きている(或いは最近まで生きていた)人間から人工知能によって紡ぎだされたしょうせつを、どんな手段でかわからないが入手し、商品としている。
 そのしょうせつは、今までボクが読んできたたくさんのしょうせつとは、きっと別物に違いない。面白いしょうせつはたくさんあったけれど、どうしても靴の上から足を掻くような感覚は拭えなかった。何しろ一番新しくて50年前くらいの人が書いたものだったし、旧人類の物語脳にはしょうせつ好きのボクでさえ辟易するところがあった。
 ボクは想像する。
 でも、それには限界がある。
 だから、ボクは今日、死体を探しに行く。

 月面居住区で壁を越えて他国民の区域を訪れること自体は難しいことではない。居住区中央のターミナルを一旦経由して訪問したい区域に入ればいい。月面は建前上国境はないことになっているので、入国審査というものが存在しない。壁はあくまで住民の自治によって便宜上設けられたもの、とされている。
 異国の人間は、ただ住民からの嫌悪と疑念の目に晒されるというだけだ。
 この東アジアの大国から分離独立した情報立国は、ボクは何度も訪れているし、そもそも他人からどんな目を向けられようが気にならない。直接危害を加えてくるわけではないし、もしそうだったら然るべき反撃を加えればいい。
 端末をローラーボードにセットして、誘引モードを起動する。古書街の「出店(でみせ)」、つまり出力されたしょうせつを売る実店舗は、日ごとに場所を変えるため、端末に届いた「招待状」がないとたどり着くことができない。招待状が示す位置情報も逐次追加と消去を繰り返していて、端末上にあるのは次の瞬間どの方角に進むべきかという情報のみとなっている。つまりボクにはこの滑走がいつまで続くのかはわからない。
 ターミナル近くの高層ビル街を抜けると、木造の汚らしい平屋が建ち並ぶ区域に出る。大通り、といっても幅5mほどの道に面して建つ家々の背後にはドブのような水路が流れている。鶏の皮が焼ける香ばしい匂いと、乾物のアンモニア臭が混ざり合う。
 ここには人間は住んでいない。人であることを諦めて原始的な生活にこだわった動物たちが前世紀中葉の頃のような生活をしている。この種の区域はどの国にもあるらしいけれど、この国のそれはおそらく世界で最も早くつくられ、規模も最も大きいという。
 生物学的には人間なので、もちろんやろうと思えば言葉は通じるけれど、試みたことはない。そもそも人間とだって話をするのはまだるっこしいのに、端末を捨てて人間を辞めた動物たちとコミュニケーションするなんて、途方もないことに思える。
 でも、この動物たちですらも、しょうせつになってしまえばきっと面白いに違いない。人間も動物も、どんどんしょうせつになってしまえばいいのに、ボクは心からそう思う。
 一度この区域を出て、追跡予防のためなのか何かの審査のための時間稼ぎなのか、明らかな遠回りをしてたどり着いたのは、建物裏のドブ川に浮かぶ一艘のボートだった。
 軽油の匂いが強く漂うボートに乗った瞬間、船尾のエンジンの横に腰掛ける老人が無言で舟を発進させる。5人も乗ればいっぱいになる小さなボートには、ボクと老人しか乗っていない。こんなパターンは初めてだけれど、いずれにせよ成り行きに任せるしかないボクは、特に老人に話しかけたりもせず、腰を下ろして前方からの風に髪なびかせる。悪臭とまでは言えないが十分に不快な臭いを味わいつつ、10分ほど舟は進み、ドブ川は広い沼地に接続して、その沼の中心で老人はエンジンを切って鉄製のアンカーを水中にどぶりと落とした。
「対価」
 最低限の単語を老人が告げ、ボクは予め手に入れて置いた希少金属を契約どおりに渡す。老人はそれを嫌がらせのように時間をかけて確認し、何も言わずに見慣れない形の紙の束を放り渡す。動物の皮製の素材で挟まれる形で「本」の形をとっていて、今まで見たアンティークもののしょうせつ(前世紀に実際に流通していたような)よりも豪華で、何より真新しい。
「本当は無い物」
 複製が許されないということを念押ししているのだろうか。ボクは手触りのよい紙をぱらぱらとめくってざっと目を通し、それがしょうせつらしいことを確かめる。確認したことを老人に告げようとすると、彼の言葉は続いていた。
「たましい」
 舟は再び動き出し、それきり老人は黙り込む。舟は手近な陸地に着岸し、ボクは再びローラーボードに乗る。最短距離でターミナルへ向かう道を設定し、最高速度で滑走しながら、ボクは最後に老人が口にした聞き慣れない言葉を思い出していた。

 「図書館」のしょうせつ生成システムはさほど難しいプログラムではない上、強力なセキュリティーで保護されているわけでもなく、彼にとってそれを入手するのは容易かった。「司書」役の音声機能など、無駄なものを省けば、プログラムは端末上でも十分走らせることのできるものだ。
 こうして他人が図書館で作成したしょうせつを得るよりも前に、彼はその作成プログラムを使って、試しに何度か自分でしょうせつを作ってみていた。テキストベースで質問への返答を入力するだけなので、効率よく答えれば1時間もかからないで作成は完了する。しかし、出力されたものに彼を満足させる出来のものは一つもなかった。
 自分の中だけから生み出されるものには限界がある。そう彼は考え、自分ではない別の人間のしょうせつを求めるようになったのだ。
 本来、プログラムは作成依頼者の心理的葛藤や懊悩を掬い取る作品を出力するように出来ている。彼が盗んだプログラムに問題があったわけではない。彼はプログラムの質問に、正しく答えようとしなかった。彼自身にも何故だかわからないが、正直に返答することが躊躇われたのだ。何か大切なものを失ってしまうような気がして。

 そのしょうせつは本としての豪華な外見に全く引けを取らない面白さだった。
 今までボクが読んできたものと違い、今いるこの世界と地続きで繋がっている場所で語られてるように感じた。ジャンルとしてはいわゆるSFとカテゴライズされていたものに属するのだろう、氷河期が訪れ人類が衰退し個体数を激減させた設定で、遠い未来の話と言えるけれど、ボクは舞台設定とは関係なく、世界への視点のありように、今まで味わえなかった強い共感を覚えたのだ。
 特に主人公が気づかないうちに抱え続けているもの、ざっくりというと罪悪感ということになるのだろうけれど、それが様々な表象として作中に描き出され、それが心に響き続ける。
 ボクは夜を徹して読み耽った。
 読み終えて2、3日、呆けたような時を過ごした後、再読した。
 誰かのためだけに作成された文章が、ボクのために、ボクによって「今」読まれるために書かれたように感じる。
 ボクは書き手(という言い方は正しくないかもしれないが)である人物に興味をもった。いったいどんな人物が依頼したらこんなしょうせつが出来るのだろう。できることなら会ってみたい。
 人間に会ってみたいと思うなんて、自分でもヘンだなと思いながら、ボクは据え置き型の大型端末を起動する。

 依頼主の返答からしょうせつを生み出したプログラムを少し改変すれば、しょうせつから逆にたどって、作成時の質問と返答を推定することは理論上は可能だ。ただ、そもそも文字列スキャンができない(それをすることで当局が感知するリスクが大幅に増大する)しょうせつを手入力する手間がある上に、プログラムの改変も自分一人の手作業となるので(クラウド上の各種サービスもリスクを考えると使えない)、何しろ時間がかかる作業となる。
 しかし彼はしょうせつの書き手特定にこだわった。
 彼自身は気づいていないが、自分(の返答)がプログラムを通じて作り出せなかった傑作しょうせつを作り出す人間に嫉妬を覚えていたのだと思われる。正直に返答を入力しないで作り出せるわけがないのだが。
 もし正直に返答を入力したら、唯一無二のしょうせつが出来あがっていたかもしれない。しかしそれは「唯一」としてしか存在し得ない。二つは作れない。そのことが彼にとっては苦痛だったのかもしれない。
 誰にとっても人生はひとつしか与えられないものだというのに。

 アマミヤ氏はボクが予想していた人物像とはかけ離れていたけれど、予想以上に面白い人物だった。でも、会いたいか、というとそうでもない。たぶん会ってもまるで話が合わない。
 ボクが一番興味をもったのは彼の仕事、人間の転送装置についてだ。
 彼の返答を読んでいると、物質転送は実際は別の場所への物質の複製であり、人間を転送する場合は転送元の人間を殺害する必要があるという。その死体処理、あるいは実際の殺害を手掛けているのがアマミヤ氏らしい。その仕事自体はどうでもいいが、ボクは転送装置にとても惹かれた。
 ボクは2人になれるかもしれない。
 2人になって何をするか。完全犯罪アリバイ作り。もちろんそんなんじゃない。
 「自分」はもう一人に任せ、何者でもなくなることができる。
 「ボク」ではない、もう一つの人生をつくることができる。
 もう自分が自分でしか無い事に絶望しなくていい。

 彼は早速行動を開始した。転送用の資金集めと、審査をくぐり抜けるためのいくつかの情報操作。人生で初めてと言っていいくらい希望に満ちた気持ちで、彼はほとんど浮かれながら作業を遂行した。これほど長い期間しょうせつを読まなかったのも人生で初めてだっただろう。
 地球への転送手続きは無事終わり、スキャン過程が進むごとに彼は高揚していった。計画の最後の部分はかなり荒削りで、というのも転送される人間は必ず丸腰にならざるを得ないからだが、水死体のふりをして銃を奪い死体処理役の人間を殺す、という雑なものだった。
 しかしその計画は成功裏に終わり、アマミヤは自身のしょうせつを読み終えた次の日に彼に見事に撃ち殺された。

 死体処理人は死に際に意外な言葉を遺した。
「良かった。しょうせつのとおりだ」
 何者にもならなくなるために立てた計画だが、施設を出るためにはまず死体処理人になり替わらないといけない。ボクは処理人のIDを奪って、彼がアマミヤその人だったことに少しの驚きと、それよりも大きい納得感を覚える。
 彼は罪悪感という物語にすみつくことができたのかもしれない。
 そして最期に、か細いがはっきりと聞こえる言葉で、
「さすが『俺の』しょうせつだ」
と口にした。
 ボクは咄嗟に彼の頭を蹴りつけてしまった。何に腹が立ったのかわからないが、たぶん自分も読んだしょうせつを、こんな仕事をしている屑のような人間に「自分のもの」呼ばわりされたのが気に障ったのだと思う。
 さらにボクを苛立たせたのは、手ごたえのなさだ。
 何者でもなくなった感覚がない。まるでない。
 そんな感覚はもちろん今まで味わったことがないわけで、どういう感覚なのかもわからないのだけれど、期待が裏切られているような焦燥感がどうしようもなく体中を走る。
 アマミヤとして施設の外に無事出ることができ、帰途に就く。それは予定通りだが、自分の中にある気持ちが予定と違っている。
 地球に着いているのであろう、もう一人の自分こそが「何者でもない人間」に慣れたのだろうか。だとしたら、何度転送を試みたとしても、ここにいるボクはボクから離れられないのか。
 社会制度上のボクは、今日地球に転送されたことになっている。だから向こうのボクがボクを背負うべきだと思っていた。でも、ボクはボクの肉体にこびりついたままだ。便宜上、故アマミヤ氏のIDを使っているからといって、アマミヤになったわけではない。
 ボクは失敗したのだろうか。

 その夜から、彼は不思議な習慣を始めた。架空の物語を書き始めたのだ。
 しょうせつと呼ぶには断片的すぎるものだったが、彼のことを一番理解できるはずの私にも全く意味の解らない行動だ。
 彼と分かれてから再会するまでの4か月の間、彼はずっと書き続けていたようだ。もちろんそのことは再会後に知ったわけだが。折しも疫病の発生で地球内での移動も厳しく制限される中、月に戻るのが手間取ってしまった私が再会した彼は、私とはまるで違う人物になっていたように見えた。
 言葉も交わさなかったので正確なことは言えないが、目の前にある彼の端末に残された私の読んだことのないテキストデータは、相当な量になっている。
 やむを得なかったとはいえ、時間を空けすぎたのは良くなかった。完全に違う人格になってしまうと、私の殺害行為に正当性が失われてしまう。
 ただ、彼が「私と違う人物」のように見えることは、私の精神衛生上は良かったのかもしれない。自分と同じ顔の死体を見下ろしながら、私はそう思う。
 いずれにせよ、自分は2人要らない。 自分が2人居たら、もう一人は必ずオリジナルを殺しに来る。そういうふうにできているのだ。
 これはたましいの問題だ。
 一人に一つ、そのルールを破ってはいけない。

 明確な殺意をひと目見て感じたので、ボクはわりとすぐに観念した。
 もう何も書けないのだ、と思った。書くという気持ちごと、いままでしょうせつを通して脳に入ってきていた何人もの人生ごと、撃ちぬかれてしまった。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 シミズとその家族は、地球で新たな感染症におびえながらも幸せに暮らしている。彼と妻と、まだ生まれたばかりの子供。いくら進歩しても人間には人間をゼロから作り出す技術はまだない。
 シミズにとっては初めての、だいぶ年をとってからできた子供。子供の顔に自分と似たところを探しながら、おれが老人の時こいつがやっと成人か、そんな感慨を抱く。
 それはつまり、この子供が社会で何らかの役割を占めるようになる日には、シミズは社会に不要なものとして扱われているということだった。

 人間は、結局のところ自分自身を殺してくれる複製を生み出し続けている存在なのかもしれない。

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