『姥捨』考
目の前の草むらで、子どもの手のひらのような平らな葉たちが、不規則に一枚ずつ身を沈めては跳ね戻る。現代音楽を奏でる鍵盤のようにランダムに上下動する。頭上に広がる木の枝から時折落ちる雫が葉を叩いているのだ。
見上げると空は木々に完全に覆い尽くされていて、雨は直接この森の中に落ちてこれない。一部は葉や枝を複雑に巡り集約された大きな雫となって落下し、一部は様々な植物の皮膚にまとわりつき静かに蒸散して大気に漂う。
もう何時間も、木の幹に背を預けて座ったまま動けないでいた。消し忘れた深夜テレビのように映像を脳へ垂れ流すだけになっている両目は、ずっと草むらを捉え続けている。自分が発する熱を自分に還元するように、両手のひらを腹に当てて、しかし寒さは深刻なものではなく、今のところは動かない右脚だけがほんの密かな死の予感として冷たく首筋を撫でる。
リュックから取り出したペットボトルの茶をごく少量口に含む。渇きを癒すのではなく、自分の身体の中に消化器という管が通っていることを確かめるために。水分が喉を通過し、身体の内側の輪郭をなぞる感覚を得られた。
生きていることを確かめたい欲求はあるが、生きていたいのかが自分でもわからない。しばらくはこのままでいいだろうが、本格的に生きようとするならば、ここから動き出さないといけないのは自明だ。頭上で複数の鳥の声がする。姿は見えないが羽ばたきの音がやや大きく響き、それに遅れて伴奏するように目の前の草の葉が激しく上下する。
見たものをただ書く。それを続けてこのノートも使い切られようとしている。森の湿度をたっぷり含んでボリューム感を増したノートに、太芯のシャーペンでこのように書き続けている言葉は、ここから出ることはない。新たなノートも用意してあるので、残りの余白を埋めることに躊躇う必要はないが、意図的に書く速度を落としている。ごくたまに雨雫がノートの上に落ちるが、水性のインクではないので、字が滲んだり消えたりはしない。
ここに書いたことは外には出ていかないが、消えることもない。
右脚は本当に動かないのだろうか。試してみたわけではないので実際はわからない。痛みは既にないか、あるいは恒常的な痛みになりすぎることで知覚できなくなってしまっている。登山用のハイカットスニーカーの紐がずっとほどけたままになっている。左足の方はしっかりと結ばれているが、右がいつからこうだったか思い出せない。だいぶ前からほどけていて、ずっと頭のどこかで気になっていたような気がする。それを忘れるために何か別のものを頭に詰め込もうとして、この温泉地に向かったのではなかったか。
少し尻が冷えてきた気がする。姿勢を微妙に変えて、体重の負担がかかる場所を移動させる。こうして微調整を続けていれば、まだしばらくはこのままここにいれそうな気がする。飲料は十分にあるし、非常食も持っている。何より右脚が動かせないから、靴紐が結び直せない。靴紐がほどけたままだから、まず最初のアクションを起こす気になれない。
ノートを読み返す。今朝までの温泉地での出来事が書かれているが、自分が体験したことだとはっきり肌で感じられる描写は数行しかない。もっと時間が経てばもっと少なくなっていくのだろう。だから書くことだけは続けなければならない。
書くことと靴紐を結ぶことは両立できる気がしない。あまりに動きの少ない人間に油断したのか、鳥がたまにその姿を見せるようになってきた。地面を跳ねるように移動する尾の先が分かれた鳥。空中で上昇と下降を忙しく繰り返す美しい青さの小鳥。この鳥たちの名前も知らない自分。いつか何かをサボってしまった自分。右脚が動くかどうかを試せない自分。
心の中にどうしてもほどけない何かがあって、それを捨てにきたはずの旅だった。その理性的な計画は順調に進行していた。しかし、どこかで足をとられてしまった。靴紐を結ぶのをサボっていたからかもしれない。
この森は居心地がよく、まとわりつく湿気がむしろ自分自身の輪郭をはっきりと感じさせてくれ、紡ぐ言葉の精度が高くなっていくのを感じる。
だからこそ、選ばないといけない。
①ここでこのまま死んでいく。死ぬまでは書き続ける。ほどけなかったものに、もう一度近づく。
②ここから出発するため歩き出す、ために立ち上がる、ために右脚が動くことを確認する、ためにまずは右脚を曲げて、靴紐を結ぶ。
inspired by『姥捨』(太宰治)、谷川温泉
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