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たどり着けない迷宮

オーケー、私が案内しましょう。と紳士は抑揚のない声で言って、その後になって決まり事を思い出したかのように笑顔を見せる。
「ふつうは」
紳士は速過ぎも遅すぎもしない絶妙な速度でわたしの前を歩きながら話し始める。
「自分の迷宮にはご自身で到達されるのですがね」
嫌味っぽさは全くない。端的に疑問に感じている、という声だ。
こっちこそ疑問だらけなのだが。

丘の上に見える街は、全体が城壁に囲まれている。月明かりだけでは暗くてよく見えないが、長辺が1㎞もないくらいの小さな街のようだ。芝生に挟まれた歩道を登り、門をくぐって石畳が敷き詰められた街路をたどる。
紳士の足音が変わり、彼が木靴を履いていることに気づく。
古城をリノベーションした国営のホテルが街の先端にあった。彼に従ってフロントを素通りして、古い鎧やらタペストリーやらで飾られた廊下と階段を進む。
無言で立ち止まってこちらを振り向き、また思い出したように先程と全く同じ笑顔を見せ、わたしに鍵を手渡した。
「ここであっていますよね」
そんなこと分かるわけがない。といって否定する根拠もないし、何より今夜は疲れ切ってしまっている。
わたしが曖昧に頷くと、彼は不自然な素早さで笑顔を消して、はっきりとした返事をわたしから得ようとする。

こういう形のチュートリアルなのかもしれない。わたしは面倒くさくなって、
「間違いありません」
と告げる。篝火を模した照明がギリギリの明るさを保つ廊下に、その声は他人のもののように響いた。
「迷宮の構成要件は」
わたしが聞き直そうとするよりも早く、彼は続ける。
「3つあります。境界と不変性とあともう一つ。境界とはもちろん迷宮の外縁のことで、迷宮の範囲を規定します。不変性に関しては、固定化ではなく運動している不変であることに留意してください。迷宮は牢獄ではありません。」
それきり彼は黙ってしまう。
「あともう一つというのは」
わたしの質問に彼は怪訝な表情だけで応じて、丁寧な動作で手をドアの方に差し伸べ、中に入るよう促す。

わたしが求めたのは安住の地だった。人間であろうとすることで極限まで疲弊させられる現実から離れ、心の安寧が得られる場所を求めてここにやってきた。
それが「迷宮」と呼ばれていることに感覚的な不安を覚えはしたが、「運動している不変」はまさに望むところだ。
自分で何かを観察し、吟味し、選びとることからの脱却。あなたはまだ幸福ではない、という強迫観念からの解放。人間は固有の魂をもって生きるべきという理想からの自由。
それは一言で言うと、可能性の放棄だ。
そのためには振り子のような繰り返す運動としての安定性が、確かに必要かもしれない。

鍵を開けるのに手間取っているうちに、いつのまにか紳士の姿は消えていた。
鍵穴に入れたままの鍵を捻りながら開ける形式のようだ。左手で鍵を捻りながら右手で触ったノブが異様に冷たくて声を上げてしまう。
山道で突然獣に出遭うような、生の自然に不意に触れてしまう恐怖にも似た忌避感が身体を満たした。
このドアの先に入れば戻れない。理由なくそう確信する。
もっとも、このゴーグルとヘッドホンを外せば、いつでも元の現実に戻れるはずだ。
しかしそこに戻らないと決めたのも他ならぬわたし自身だ。
冷たい手が首筋にまとわりつくような感覚を振り払って、わたしはドアを開けた。

そこはわたしの部屋だった。
さっきまでわたしがいた現実と寸分違わぬ景色が広がっていた。振り返っても入ってきたドアはもう見えず、見慣れた台所が見えるだけだ。
ゴーグルはまだわたしの頭に装着されている。
つまりここがわたしの迷宮ということなのだろうか。それともわたしは何か致命的な失敗を犯してしまったのだろうか。
紳士の言っていた「三つ目の構成要件」が不足しているのか。
ゴーグルを外す。再起動する。アプリは消滅している。わたしは溜息をつく。

わたしはわたし自身で迷宮をつくりあげなければならないらしい。
現実とまた係り合う。現実を迷宮化するため、できる限り行動をルーティン化する。行動範囲を限定し、そこからはみ出さない。選択をしない。前例にのみ従う。
そうしてわたしはこの迷宮に足りないものに気づく。
判断のすべてを委ねられるもの、即ち神の存在に。

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