宵前崖上逍遥
高台沿いに延びる道は両側に商店などが立ち並び、此れと言って目を遣るべき風景も見当たらないが、省線の切り通しを跨ぐ橋を渡る時には線路方向へ視界が開け、丹沢からその奥の富士までも一望できる。冬風が帝都の澱んだ空気を海へ押し流し、雑然とした街並みにくっきりとした輪郭を与えてそれなりの絵に仕立て上げている。
橋の名の通り、暫時富士見物を楽しんで居ると、足元を列車が通り抜けて行く。その音に怯えたのか、欄干で弛緩し切っていた三毛が機敏に飛び降りて駆け去ってしまった。瞬く間に金物屋の軒下に尻尾は消えて行き、既に駒込方向へと去った輸送機関を少し許り憾む。
日暮れをここで眺めるという考えも一時頭を過ぎるが、余りに情緒のない騒音と、意外な程の人通りの多さに、これ以上立ち停まる事は出来ぬと再び歩き出した。
私の足音はカラコロと愉快に鳴ることは無い。子供の時から親に注意されてもまるで直らなかった摺り足癖に依って、ジメジメと陰気な足音がいつも私に付いて来る。下駄は早く減るし転びやすいし音で気鬱になるし、良い事無しだが、どうにも直らない。
冷たい風に促されるように背を押され歩く。途中に見えた郵便局で不精している送金の手続きをしようかと思案するが、矢張面倒で辞めてしまった。向かいから歩いて来る女性が、砂埃が立つ程の風に狼狽していて、その仕草に私から去った人の面影を見るが、擦れ違い様に眺めるとまるで似ても似つかない。
本格的に陽が傾いて冷え込み始め、身体を温めたくもあり歩を早める。日が沈む前に諏方神社に着けるだろうか。田端の切り通しを渡る頃にはすっかり空は紅くなっている。
何れにせよ、間に合いはしないのだ。私はその事を十分承知している。今更神頼みして何になろうか。お参りだって今ふと頭に浮かんだ仮初の目的に過ぎない。悔恨と両脚を引き摺って、私は行く宛て無く歩いていただけだ。
道灌山を降りて道路を渡り、急な階段を登れば神社は直ぐ先だ。黄昏時に残された薄明かりの中手短に参拝する。他人の幸福を祈る事は誰にでも与えられている権利であろう。その相手が其れを全く望んでいないとしても。
日暮れを名乗る町の日暮れは去り、焼けていた空の名残は紫色に塗り潰されてゆく。てんでに夕餉の匂いを振り撒く人家に挟まれた細い坂を下り、曖昧になっていく富士の稜線を惜しんでいるといつの間にか明星がいやに明るく輝いていた。
如何に眼を凝らしても、月とは違い、金星の満ち欠けを確認する事は出来ない。月も随分遠くにあるのだが、金星は更に遠くで地球とは関係なく独自の運動をしていると聞く。此処から見て美しい事に変わりはないのだが。だとしたら隔たりが損ねてしまうものとは何であるのか。
畢竟それは寂しさであると独り言ちて、私は谷田川沿いの鰻屋で酒に身体を暖めてもらうなどするのだろう。女将と意味の無い無い遣り取りをしながら、白焼を突つくなどするのだろう。それが今迄に何度も重ねて来た同じ時間同じ光景同じ台詞同じ味だとしても、そうするのだろう。
私は円環状のレールに嵌ってしまったパチンコ玉のように同じ所を回り続けるだけなのだ。その軌道は二度とあの人とは交わらない。
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