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凍っていた言葉

旧国境を越えて海岸線沿いに北上し、目指す場所がやっと見えてきた。
レンガ造りの倉庫は形を保ったまま斜めに突き刺さるようにして、地面を分厚く覆う灰の中に半ば沈んでいる。間口は幅5m強、奥行きの長さは全貌が見えないので分からないが、沈まず見えている部分だけでも20m以上はある。
三角屋根も正面側の壁だけにある小さな窓も破損している様子はなく、サンドクルーザーを停めた僕とシオネは思わず歓声を上げる。
底面だけ広く円形に延ばした靴、通称・砂蜘蛛に履き替えて、灰に埋もれてしまわないように慎重に倉庫に近づく。地面から浮いて宙に持ち上がった格好の正面部分は地面から3mほどの高さにあった。シオネが器用にカギ爪付きのロープを使って進入経路を確保する間、僕は手元の端末で倉庫の情報を検索する。
やはり該当情報はない。ということは大更新前のものであることは間違いない。保存状態もいい。今回は期待がもてそうだ。
シオネは既に地面を離れて倉庫の扉の前に到達していて、屋根から吊り下がったロープに体重を預けながら、
「開かねーけどレーザー使っていいのか」
とまた粗雑な提案をする。
「アカンに決まってるやろ。中のもんはえらい繊細なんやで」
聞こえよがしに舌打ちして携帯カッターを取り出すシオネ。中のものが残っていればいいけど。僕はそう祈りながらシオネが木製の扉に穴を切り開くのを待つ。

頭上から投げ捨てられた扉の一部を拾って確認する。全く腐敗が進んでいない。大更新後の凍結度が高い遺構だということだ。側面に全く窓がないというのも、太陽光にナイーブな物体が保管されていることを示唆していて、期待は高まる。
もしここが噂に聞く「図書館」なら最高だ。旧代の言葉で、いわゆるアーカイブセンターのことを示すらしいが、サーバもディスクもなく視認可能な状態に出力されたデータの束を収納していたという。その出力物は植物性繊維で作られているとされ、大更新後に残っているものは未だ見つかっていない。
大更新で全ての電子データは消滅したわけだから、つまり「図書館」という存在自体、大更新を跨いで生き延びた人間が口伝で遺した不確実な情報でしかない。ただの伝説と見る向きもある。
ただ、僕たちのように一攫千金を狙った…
「くせェ!」
空けた入り口に顔を突っ込んだシオネが叫んだ。

防護マスクは持ってきてないなと舌打ちしながら、
「どんな臭いや? ヤバかったら一旦降りぃ」
と訊くと、今度は
「うん? いや、いい匂い、なのか?」
などと言い出す。こっちに向けた顔がやや赤らんでいる。僕は不審に思いロープを登る準備を始めながら、手元の端末でシオネのバイタルを確認する。心拍数がやや上昇しているが危険域ではない。
シオネは倉庫の正面の表側に50cmほど張り出した床に足場を確保して、扉の内側を覗き込む。
「灯りはまだアカンで」
と言う僕の言葉に、分かってると手の動きだけで答え、シオネは斜面になっている倉庫内部への侵入の準備を始める。僕はその間に彼に追いついて、彼を驚かした匂いを共有する。
下からでは嗅げなかった香りがこんなに強く扉から漏れている、つまり空気より軽い気体、おそらくは揮発性の物質。ただ香気成分の要素が多すぎて特定が難しい。嗅ぎ取れるものだけでも優に10種は超える別種の香気がある。
しかし間違いなく含まれるのはC2H5OH、エタノールだ。

図書館ではなさそうだった。
倉庫の中には直径1mほどの円筒形をした木製の容器らしきものが整然と並べられている。倉庫の長辺に沿って2列の通路ができていて、円筒の底面を通路側に向けるようにして容器の列が都合4列並び、それぞれの列に天井まで3層にわたって容器は積み上げられている。床がここまで傾いていても容器が奥の方に転がっていないのは、各容器がしっかりと金属製の什器に固定されているからだ。
「化学物質の倉庫やな。残念ながらお宝は無さそうや」
と言うと、シオネはどうしようもないバカを見るような目で僕を見て、一瞬何かを言おうとして口ごもる。

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最初はタクが得意のボケをかましているのかと思ったが、そういや奴とは一緒に酒を飲んだことはなかったなと気づいた。
俺はタクのような学はないが、ここが酒の保管庫だということはわかる。他に何の趣味もない分、酒についてはカネをかけてきたから、目の前の樽に入ってんのがどういう酒だかも想像できるし、その価値だってわかる。
「お宝じゃない」と言うタクに思わず呆れてしまったが、こいつはそもそも酒を飲んだこともないのかもしれない。

酒を飲む奴は珍しい。もっと効率的に精神状態をいじれるやり方がある以上、コスパが悪いというのはわかる。メシの中途に酒を飲んでより美味くなるみたいな奴らも、俺が生きてるような世の中ではお目にかかれない。
俺はバカだから、最初に飲んだ酒がなんかうめぇと思ってしまって、それからなんとなく飲み続けてる。日によって違う飲んだ後の酩酊具合も楽しんでいるし、酒仲間とあーだこーだと毎度おんなじような話をしてるのも嫌いじゃない。でも何より、俺はあの味が好きだ。
俺がありつけるのはもちろん安酒で、雑な蒸留でアルコールを集めて作る奴だ。他人に話して共感を得られた試しがないんだが、毎度ちょっとずつ味や匂いが違って、それが面白い。
山上地域で働いた時に一度だけ見た花ってやつの匂いに似てたり、女のつける紅みたいだったり、かと思うと朝飯のペーストに塗るシロップみたいな匂いだったり。俺はそういうなんだかよくわからない味や匂いを、毎回こっそり別の言葉で喩えてみるのが好きだ。その独り遊びが、俺が酒を飲む一番の理由かもしれない。
俺が飲んできた酒が、灰の下に沈んだ昔の世界のそれとは全く違うものだってことくらいは知ってる。扉を開けた瞬間の刺すような臭いも、今ここに漂っているいくつかの香りも、今まで嗅いできたものとは違う。でもこの樽に入っているのと同じ名前がついた酒を、俺はずっと愛してきた。命の水。
「タク、こりゃウイスキーだ」

タクは手にした端末を使って一生懸命に何か調べている。
こいつの計画に乗ったのはちょっとした気まぐれだった。図書館なんてあると俺は思ってないが、このご時世に沈んでる言葉をわざわざ引っ張り出してこようとしてるタクの熱を、俺はけっこう気に入ってしまった。あいつがカネ目当てだと言ってるのがポーズなのは丸わかりで、それもまた可愛らしい。
俺を巻き込んで責任を感じてそうなタクのためにも、なんかの遺跡からそれなりの成果が見つかればいいなくらいに思ってたが、予想をはるかに超えるシロモノが出てきた。
「なるほど、この地域で特産品として作られていた蒸留酒なんか。ある程度揮発は進んでもうてるやろうけど、けっこう高く売れるんちゃうか。しかし、シオネ、これがウイスキーやってよう知ってたな」
ちょっとしたドヤ顔だけでタクに返事をして、俺は近くの横に寝てる樽を観察する。上の方に5センチくらいの円形の穴が空いていた。木の栓で埋められていたが簡単に外れた。

瞬間、幻に包まれた。
踏みしめる足が少し沈みそうなほど湿った地面は、色味の地味な植物に覆われ、それが見渡す先までずっと続いている。海が近いのか、背後からは波の音がかなりデカく聞こえる。空は暗く、今にも降り出しそうだ。湿った土、潮と磯、雨の直前の匂い。
遠くで植物が波打ち、その波紋が徐々に近づいてくる。風が吹いているのだ。風に吹かれた植物が鮮やかな緑色に変わっていく。花らしきものが咲いているところもある。爽やかで生っぽい草の匂い。
地面がすっかり緑の絨毯に変わった時に風は俺に届く。甘やかで柔らかい風。さっきまでの陰鬱な景色に似合わない、温かで陽気な鼻をくすぐる匂い。
「原料はイネ科の植物だけやのに、こんなたくさんの香りがするもんなんか」
タクの言葉で我に返る。
そしてその言葉に、こいつと同じ体験を共有してることに、俺は素直に嬉しくなった。
「飲んでみようや」

樽の穴から差し込んでウイスキーを掬い出す長い柄杓みたいなのを倉庫の隅で見つけ出した時は、二人とも大声を上げた。そういうのがあるはずだ、というタクの情報検索能力と頭の良さに感謝だ。
携帯水筒の蓋部分をコップ代わりにして、ようやく俺たちは命の水にありついた。酒自体が初めてだというタクに、ちょっとずつ飲むことだけをアドバイスして、気ぜわしく乾杯する。
鼻で嗅いだだけの時よりも、たくさんの種類の幻が頭の中でぐるぐると回る。一瞬で現れては消えて、はっきりと掴むことができない映像。酔いとは違う。この酒が俺に伝えてくる膨大な量の言葉、いや、頭の悪い俺には言葉として感じ取れない複雑な調子や色合い、そんなのが駆け巡るのだ。
美味いとか不味いとかよりも先に、まず圧倒されてしまう。
タクはまず酒というものに驚いているのか、ずっと下を向いている。酒の初体験がこれだというのがどれほど幸せなことなのかわからないだろ…
「3日前に食った、宿のばあさんが焼き焦がした失敗砂糖菓子の匂いや」
突然顔を上げたタクが口にした言葉は、俺の頭の中を巡り続けていた幻の解像度をぐっと上げる。痒いところに手が届いたような、ずっと思い出せなかった名前にやっと辿りつけたような快感。
「それだ!」
タクが笑う。俺はこいつと初めて本当の意味で繋がったような喜びを感じる。
「あとはな、えーと、他の匂いもすんねん。クルーザーの燃料の…」

俺たちは他の樽にも手を出して、そんなふうに眠っていた酒をどんどん言葉にしていった。
さすがにアルコールにやられた俺たちは、とりあえずクルーザーに戻って寝っ転がりながら、すっかり暗くなった空を眺める。
図書館は見つかった、というタクの言葉に、俺は心から同意した。

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