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【コロナと資本主義とアートと哲学】

 コロナウィルスの名前の由来は太陽コロナだそうで、皮肉な事に、世界がその小さな太陽によって世界的な岩戸籠りとなった。

バリ島の踊りの師匠コンピャンは言った「太陽は唯一無二で世界を平等に照らす。なのに、日本ではタイヨウ、アメリカではサン、バリではマタハリ、、1つではない」(これは言葉を表しているのではなくイデオロギーや貧富の差や、差別を意味している)皮肉な事に今世界が恐れる太陽は世界の共通言語になっている。
太陽の下に平等に感染する。ある意味極めて高度な民主主義ともいえる出来事です。

同時に
自然界において人間とは如何に脆弱なものか、、それを知る大きなチャンスでもあり、信頼してきた資本主義の崩壊をより身近に感じるチャンスでもある。

私達は合理的で生産性の高い効率的な社会、つまり資本主義というシステムの構成員として、その進歩と共に成長してきた。

それが終戦後、焼け野原になった日本で祖父や父の世代が新しい幸福があると信じて、血の汗を流し作った社会だ。

いつしか、この高度に安全で整理された社会に飼い慣らされてしまっているのではないか?私達が生活している基盤は全く信頼されないまま放置されている政治と、個人の趣向や行動、日常の全ての情報をクラウド化していく盲目的に常時接続しているネットワークだ。

私達はこのバーチャルな政治とリアルなネットワークと崩壊していく資本主義という基盤の上でどう暮らしていけばよいのか?

どれだけ資本主義やテクノロジーが発達しても目には見えないウィルスに悲しみと恐怖が増大する。 そこにヒントがある。私達人間が今気が付かないといけない事は権力や英知やテクノロジーで自然をコントロールする事の限界を知ることだろう。

アートという言葉の語源はラテン語の ars (アルス)で、ギリシア語のテクネー に相当し、本来は「芸術」というより、自然に対置される人間の「技」や「技術」を意味する言葉であった。
つまり、アートを人間の本質的で内発的な真理への欲求(哲学)の表現とすれば、この言葉が示すように元々アートとテクノロジーは一緒だったのだ。いつしか、それらは分離して資本主義というシステムに取り込まれてしまったのではないか?

資本主義は発展の名の下に一部の富を増大させる一方で自然環境を犠牲にしてきた。 自然とはあなたが生きている事そのものであって、朝起きた時から眠りにつくまで、あなた自身が見ている世界の全てだ。 世界はこれほどまでにつながっている。地球の裏側の感染者の数は刻一刻、手に取るようにわかる。

あなたはそんな世界とつながり、同時に自然の一部でもある。

来月の生活費や稼ぎを考えても今は答えなんて出てこない。であれば、岩戸に籠った時間を有効に活用して自分と世界について「問う」(哲学)してもいいんじゃなかろうか。

*資本主義の崩壊についてもう少し知りたい人へ
『資本主義の終わりか、人間の終焉か? 未来への大分岐』(集英社)
が読みやすいですよ。ガブリエル・マルクスは哲学者だけど、取っつきやすい。全面的に賛成ではないけど、もっと哲学しようぜ!っていう姿勢はとても好き。

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