21、寅さん

ぼくが初めて寅さんの映画第一作を見たのは1969年のNYは
マンハッタンの115丁目ハドソン川に面した仏教会だった。
その頃少数ではあったが、近くに日本食料品店がありマンハッタン
では数件しかなかった内の一つの小さな日本レストランもあった。
寅さんはぼくの空手の生徒の紹介である女性と知り合い、初めて
のデートで見たのだった。仏教会では広間で簡易椅子を並べ日本
映画の2本立てを毎月1度日系人達に見せる為に確か2ドルで
興行していた。又映画のチケットで小さなお弁当が当たるクジが
あり、それ以外にも小さなお土産物が当たるがぼくは当たった事
がなかった。

その彼女は看護婦をしており、もちろんぼくより稼ぎは多く、
そのデートで帰りに家まで送っていくのがアメリカの若い男女の
ルールらしかったが、ぼくは彼女を地下鉄で家まで送るだけの帰り
15セントのお金が無く、それがバレて彼女が15セントのぼくの
帰り道分まで貸してくれて彼女を送ってゆく事が出来た。
その彼女が今のワイフである。

彼女は寅さん映画を見て一緒に笑ってくれたが、子供の頃から寅さん
のような子にいじめられたそうで寅さんみたいな人は嫌いだと言って
いたが、その後もぼくと一緒に見る事になってしまった。
仏教会でいつか寅さんを上映しなくなってからはNYの北郊外の日本
食料品店の隣の映画館で上映される事になり、日本人が増えてゆく頃
でもあって買い物ついでに映画を見る人が多くなっていった。
上映後に映画館から出るといろいろな友知人がおり、大手日本企業の
NY支社長や重役が奥さんと一緒に見に来ていた。寅さんのロケは
柴又から発して日本の各地を回るので駐在員の田舎が出てきたりすると
懐かしさを覚えるのだろう。ぼくは満州生まれの東京育ちだが寅さんは
実に日本の田舎風景や下町情緒など日本にしかない人情を見せてくれる
のだ。ただその映画館から出てくる人達は皆素晴らしい笑顔だった。

時代が流れ日本が発展すると同時にシリーズ後半になると助監督や
ロケハンに次の撮影場所を探すのに関係者達が苦労したと聞く。
それは地方の美しい景色の場所でも道路の白いガードパイプがあり、
画面には必ず高層ビルが見え隠れするので撮影場所を見つけるのに
苦労したと言う。これは特に時代劇にはより大変な事だろう。

ぼくがまだ日本にいた頃、寅さん映画以前はNHKで「夢で会いましょう」
の番組で司会の中嶋弘子が最後にお別れの挨拶をする時に彼女を脇から
いつも笑わせるのが渥美清だった。ぼくが渥美清本人を見たのは1963年
に「拝啓天皇陛下様」という映画の撮影でぼくが20歳の時、ぼくの家は
都営住宅にはなっていたが近くにまだ戦争の名残りのコンクリート塀の
残骸や貧民窟と呼ばれた部分があった頃である。天皇陛下役は
「黄色いサクランボ」や「バラが咲いた」の曲で有名な浜口庫之助が
陛下にソックリという事で彼が馬に乗っている撮影現場を見た事が
あった。もしこれが戦前、戦中だったら切腹物だっただろう。
他の出演者に山下清や中村メイコなども出ていたと聞く。ぼくはその
映画は見ておらず、翌年渡米してしまった。

ぼくの寅さんファン熱は過激になり、同じDNAを持つ漫画家の兄貴も
友人と寅さんの追ッカケをやり、その後山田洋二監督と「寅さん映画が
出来るまで」の共著を出版したり、遠くにいる酔っぱらい役で2,3度
出たらしいが、何度見ても兄貴の姿を見つける事が出来なかった。兄貴は
渥美清死後、サンデー毎日から出版された「あばよ 寅さん」の特集号
で漫画を担当し、お悔やみにしたと言う。

NYで日本レストランのオーナーであるぼくの友人と二人で勝手に
「寅さんファンクラブNY支部」を作り、山田監督がNYで講演会を
やった時に二人で挨拶に並んだ事もあった。ぼくはその後、兄貴の
関係で3度ほど山田監督の講演会でお会いしたが、その時ぼくの著書
を差し上げたが読んでくれたかどうかは分からない。

寅さんのビデオテープは全48巻もっていたが、何度見たか数え切れない。
その後フォーマットが変わり、DVDになってもその形で48巻全部を
自分のお宝として持っている。寅さん映画からは多くの事を学ばせて
もらった。もちろんテキ屋言葉や愛について、又は人生哲学的言葉
など山田監督の凄さを感じた。ぼくが一番好きなのはいろいろある中
でも第一作目と太刀喜和子が’マドンナの「夕焼け小焼け」である。
播州竜野の風景や「赤トンボ」の作詞者詩人三木露風の郷土が美しく、
宇野重吉の演技が実によく、昔の女性に会いに行き彼女が言う
「後悔には二つあって、やっておけば良かったとやらなければ良かった」
とあるセリフだった。

初期の寅さんは若く、動きも活発で失恋ばかりする寅さんは歳相応の
役柄でも会ったが、彼が癌になり元気が亡くなってからは何か予感的
感じがした。動きが無くなり言葉だけの元気さは本来の寅さんが見え
なくなっていた様子だった。

渥美清の芸能人らしからぬ所は個人の生活を完全に仕事とを分けていた
事である。今の芸能人はすぐにお金の話や、それも金額までテレビで
自慢げに言う品の無さには呆れるが、渥美清は幾ら稼ごうと一切個人
として慎ましく過ごしていた事にあると思う。今の芸能人に少しでも
彼を学んで欲しいと思って止まない。

また彼の「風天」の俳号でタイトルそのままの「風天」の俳句集は
自由律俳句の尾崎放哉や種田山頭火の自由な規約のない句は素晴らしい
に尽きる。渥美清は是非放哉を演じてみたいと言っていたそうな。
ぼくは俳句の事はよく知らないが、ぼくの好きな彼の句は沢山あり
「お遍路が 一列に行く 虹の中」は有名な名句だが「夢で会う 
ふるさとの人 みな若く」「渡り鳥 何を話し どこへ行く」
「鮎塩 盛ったまま 固くすね」「好きだから 強くぶつけた 
雪合戦」「蟹 悪さした ように生き」
などがある。映像や気持ちがビンビンと伝わってくるのだ。

寅さんは海外で生活する人達の日本に郷愁と笑いを感じさせる唯一の
娯楽でもあった。もちろん日本人全てに対してだが。それこそが20数年間、
48作もの長い間続けてこられたのだと痛感する。終。


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