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ニール・フジタ

ぼくが最初にフジタ氏を見たのはNYTDCの会員になりオープニング展の
時に遠くから多分あの人はフジタ氏ではないかと思うだけの近寄りがたい
存在の人だった。その後ぼくのポートフォリオを見てもらおうとオフィスに
お伺いした時にフジタ氏のオフィスの壁にぼくのデザインした写楽の
ポスター/カレンダーが貼ってあり、心の中で驚喜した事があった。

それからはTDCのオープン展で何度もお会いしたがこのインタビューで
長い時間を費やして頂き、感激した。特にフジタ氏の日系人強制収容所の
お話などは感涙の連続だった。又フジタ氏がNYへ出てきた頃の人種差別的な
お話も同じ日本人の血として憤りを感じる事さえあった。フジタ氏の経験
とは比べ物にならないがぼく自身少なからず人種差別を経験してきていた。

とまれフジタ氏を有名にしたきっかけはコロンビア・レコードの数々の
LP盤ジャズ・レコード・ジャケットのデザインであろう。その代表作は
デーブ・ブルベックの「タイム・アウト/テイク・ファイブ」である。
もちろんその後もトルーマン・カポティの「冷血」装丁、マリオ・プーゾの
「ゴッド・ファーザー」の装丁、その後フランシス・フォード・コポラ監督
により大ヒット3部作で映画化されたポスターも記憶に残る作品群である。

このインタビューの時にフジタ氏は本棚から1冊の古い厚めの本を出して
見せてくれた。それはまだ無名時代にフジタ氏の友人だったアンディ・
ワーホールのスケッチブックだった。ページをめくるとそこにはベン・
シャーンと思わせるあの引掻いたようなペン画のデッサンやアイデア作品が
盛り沢山に描かれていた。デッサン力といいタッチといいワーホールが
アートを追求し続けた一つのステップだった事が伺える。
日本の「何でも鑑定団」なら数百万は下らないだろう。

フジタ氏は1921年ハワイで生まれ、父親は広島出身の鉄工職人であり
アートとは関係ない環境に育った。母親は教育のあった人で若い頃から
歴史、哲学、文学書を読むように躾けられ高校時代の美術の先生に
啓蒙されアートに興味を持ち始めた。その後高校を中退して1939年
一人で船に乗りロスに移住。誰一人として身寄りもなく日本人街へ
行って心の安らぎを覚えたと言う。17歳で、ある食料品店で2年間
住み込みで働く。自分の人生まだ何をして良いか分からず、絵を描く事が
好きだったのでその後アート・センター・スクールや他の美術学校へ通い
学業途中で戦争勃発、ワイオミングの日系人強制収容所に移動する。

その間「私は誰なのか?アメリカ国籍を持つ人間なのに何故差別される
のか?アメリカ国籍を持つドイツ人やイタリア人はどうなのか?
日本人1世にも差別され、アメリカ人にも差別され続けるのか?」
の問いかけだらけであったと言う。
「どんな考え?ではなくどんな顔を?」持つかで決められ、「自分は
誰なのか?何なのか?」の疑問は日系人達に強い何かを教えた。
収容所には1年半いたが常に「殺される。埋められる」恐怖が毎日の
ようにあったと言う。フジタ氏は少年時代からドモリだったが、
収容所時代に演芸会があり、そこで5000人の前で歌を歌うはめに
なって開き直ってからドモリが治ったと言う。

収容所では日本人1世と2世の間に多くの葛藤があったが1943年
アメリカ陸軍に入隊し、442部隊対戦車部隊に配属されヨーロッパ戦線
に赴く。山崎豊子の「二つの祖国」ではないが、太平洋戦線にも通訳と
して日系人が必要とされフジタ氏にも打診があったが日本語の能力が
無かった理由で断った。

日系人収容についてはブッシュ・シニア大統領の時に公式な謝罪が
あったが、戦後66年を経たオバマ大統領の2011年にやっと日系部隊の
活躍が認められて兵隊として最も名誉あるコングレッショナル・
ゴールド・メダル(名誉黄金勲章)が授与された。
今更勲章が何になるのかは疑問だが。

ここでフジタ氏への質問に入ってゆく。

みのる「自分の目的とその道筋は何だったのですか?」
フジタ「戦後私は同じ美術校に戻り、同じ尊敬する教授で昼も夜学へも
    通ったがやはり同じ教授だった。同じクラスを2度取っても良い
    クラスだった。とにかく「学ぶ」事にハングリーだった。
    私は戦争、収容所、米軍兵隊、の経験をして戦後は学校と仕事を
    しながら学ぶ事に喜びを感じたね。」
   「自分の好きな道を歩めた事、実に様々な経験が自分を大きくした
    と思う。」「フィラデルフィアにいた時にベニー・グッドマンや
    ルイ・アームストロングらのジャズ・コンサートがあり、知人が
    その進行係だったので『ポスターはあるのか?』と聞いた所、
    まだ何もないので私がやる事になりそれがキッカケでポスターが
    幾つかの新聞に載り、デザイン賞を取って世に出るチャンスになった。
    もちろんタダの仕事だったけど、ポスターは成功し、多くの人の目に
    触れる事になった。」
   「それからCBSのデザイン部長のビル・ゴールデンに呼ばれて
    コロンビア・レコードのデザインをやる事になっていった。」
   「その後ルダー&フィン社のデザイン部のボスになった事もあって
    自分の花が大きく開いた。」「とにかくその時は(コロンビア)
    レコードのフジタと呼ばれる事を壊したかった。」

みのる「影響を受けた人は?」
フジタ「美術学校の教授だね、その他大勢いるけどデザイナーとしては
    ポール・ランド、ポール・クレー、ミロ、ピカソ、ブラックなど。」

みのる「好きな本は?」
フジタ「クラッシックが好きだね、ヴォルテアー、オスカー・ワイルド、
    沢山あり過ぎだよ。若いのではトム・ロビンズなんかを読むけど
    常に何かを=読んでいるからね。」

みのる「好きな食べ物は?」
フジタ「私は料理が好きで日本食もよく作るよ。他にイタリアン、
    中華など、でもフランス料理は少ないね。ビールとワインは
    必ずかな。まあ自分で作るのはダイエットも考えるから」笑。

みのる「音楽は?」
フジタ「これは仕事がらジャズが良いね。もちろんクラッシックも大好きだ」

フジタ氏はコロンビア・レコード時代からブルー・ノートのジャズ・
ミュージシャンとの交際もありブルベック、ミンガス、コルトレーン、
マイルス・デービス、アート・ブレーキーなど殆どのアーチストとの
親交があった。もちろん彼らのレコード・ジャケットのデザインも
ヒットの部分として助力した事である。

みのる「タイポグラフィについて?」
フジタ「コミュニケーションのシンボルだから先ず読み易さだ。文字が
    揃って単語になり、単語が重なって文章になり、文章が増えて
    節となり、節が多くなると小説とか本になる訳だ。だから最初に
    来る文字は絶対に読み易くならなければいけない。そこには
    理由とメッセージがハッキリしないと読む人に伝わらないからね。
    伝達方法として良い物は効果的だが、悪い物は読む人にすぐに
    伝わるよ。」

みのる「コンピューターについて?」
フジタ「限度のある道具。しかし、人間には出来ない細い線を書いたり
    早さは優れていると思う。これからは世界的に重要な道具に
    なるだろう。パソコンに使用される言語は英語であり、アジアの
    国々は英語教育に熱心だが日本は大分遅れているね。」
   (ちなみに世界での日本の英語力は163位(1990年当時)である。
    この当時海外向けの留学生のテストTOFELの応募数は日本人は
    多いが、成績はアジアで蒙古、北朝鮮の下から3番目であった)

みのる「問題に対する解決策とは?」
フジタ「それには4つの鍵がある。*見る事 *感じる事 *思想 *論理 
    全てが組合って解決策になると思う。」
   「そこは対比も存在し、例えば人間と動物や作る人と見る人にもなる。」
   「4つの鍵の組み合わせが良ければ本の装丁でもポスターでも効果は
    絶対に出るはず。」
   「私のゴッド・ファーザーのタイトルはゴッドとファーザーを分けて
    見るようにし人は神によって操られているだけのメッセージを
    伝えたかった」

みのる「若いクリエイターへのアドバイスは?」
フジタ「最初に私のジャズ・コンサートの仕事はタダだったけど、タダ
    でも良い仕事なら進んでやる事だね。それによって人の目に
    触れて次の仕事へのキッカケになるから。」

(そう言われてみるとぼくもかなりのタダ仕事をやってきてそれらが
いろいろな賞を取る結果になった。何故ならそれらのクライアントは
自分であり、誰にも指示されないので自由に制作出来るからである)

フジタ「何が重要か?色、形、イメージ、アイデア、デザイナーが作る
    単語はインターナショナルだ。若者は1に本を読む事,2に読む,
    3に読む事だね。そして描いて描いて描く事だろう。」

フジタ氏はその後フィラデルフィア・ミュージアム・カレッジや
プラット・インスティテュート、パーソンズにて教鞭を取り、学生達の
メンター(師、教育者)として慕われた。

みのる「広告とは?」
フジタ「人がそれを見てどう感じるか?例えばフォークを見て人は鋭さを
    感じ、危なさを感じ、光を感じたりする。それを『痛い~!』と
    表現するとより強いメッセージにもなり得る。だからフォークの
    先は一本ではなく、10本でもなく、3、4本なのだろう。時には
    ユーモアも要素になってくる」「4つの鍵の組見合わせだね」

最後に簡単な答えでの質問を
みのる 「日本」
フジタ 「大好き」
みのる 「デザイン、イラスト、フォトグラフィー、広告など」
フジタ 「楽しい」
みのる 「愛、女性」
フジタ 「好きだね」(笑)
みのる 「人生とは」
フジタ 「全てさ」

フジタ氏が活躍当時、戦後十数年を経たアメリカでも日系人という立場
だけで想像出来ないほどの人種差別を経験された事と思う。フジタ氏が
フィラデルフィアのジャズ・アルバムで多くの賞を取り1954年NYに行き
コロンビア・レコードのボスになった時に「あぁお前がデザインで有名な
JAPか」(JAPは最も軽蔑された言葉)とクライアントにまで言われたと言う。
その背景には戦争はもちろん、日系人というジェラシー、差別が凄かった。
故にその頃はパーティなどにも顔を出さず作品だけの勝負だった。

「デザイン界と言っても小さな世界で皆籠の中にいる。籠の中は業界だけで
一般社会は籠の外となる。それが嫌で他人との距離を置くようになった。
それも理由の一つで言葉や文学をより深く読みたい、書きたいの欲望から
33歳でコロンビア大学の夜学に通った。」「私に差別感を与えた人達は
私を商売仇と見た部分もあったと思うしかしそれは個人的な事だから
しょうがないさ。」

実際に戦後60年ほど経った頃でもぼく自身差別を経験した事があった、
それも自由さを特権とする小さなデザイン界においてだった。
ある時期ぼくは人数の穴埋めかどうか、何故かNYADCの殿堂入り候補者
審議委員になった事がある。その時に何故フジタ氏を推薦しなかったのか
悔やまれてならない。そして未だに殿堂入りをされていないのが
不思議である。これを単に人種差別とは言えないが。他に日本のデザイナー
からぼくに強く推薦をアプローチしてきた事はあったが、それは無視した。
フジタ氏の大学の生徒レベルの人達が殿堂に入ってゆくのを見るにつけ
その謎はまだ理解出来ないでいる。

2010年フジタ氏の凄まじい人生は終止符を打った。クリエイティブ業界の
日系人としてこれほどの人物はもう出て来ないだろう。そしてフジタ氏の
代表作であるデーブ・ブルベックの「タイムアウト/テイク・ファイブ」の
ブルベックは2012年12月に91歳で天寿を全うした。ジャズもデザインも
同じクリエイティブの世界に又一つ大きな生きた歴史の灯が消えてしまった。
しかし氏の作品群が残す灯は永遠に消えないだろう。終

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