55, 渡米

その後銀座のデザイン社で1年ほどした頃はレタリングの腕も少しは
上がり、文字が好きになっていった。空手も3段に昇段し、着々と腕を
上げ、正義の味方となったぼくはマントで空は飛ばないが弱きを助け
強きを挫く人になっていった。

その頃の映画、ピエトロ・ジェルミの「鉄道員」やアラン・ドロンの
「太陽がいっぱい」などの影響もあり、ぼくはイタリア語を学ぶ為に
九段のイタリア文化会館で講習を受けたり、雑誌「宣伝会議」の告知版に
「イタリア語を学ぶ」を見つけそのグループに参加した。グループは
30代の広告界やデザイン界で活躍する人達で確か吉祥寺辺りだったと
思うが、講師をイタリア大使館から呼び毎週1回の勉強会が楽しかった。
やがてそのグループも解散し、ぼくの行き場は無くなってしまった。
以前勤めていた「ガイドプラン」誌はイタリア特集や海外からの観光客
誘致の為に外国記事もあり、イタリアへの傾倒は益々強くなり、将来は
イタリアの女性と結婚しようとも思っていた。今でもあのイタリア人の
明るさといい加減さが大好きである。

イタリアへはこの13年後に目的到達をするが、その時はイタリア女性
ではなく、既に日本人を父にロシア人を母に持つ女性と結婚していて
2人で一月かけヨーロッパをVW車で約5000キロを走行する事になる。

悪友達からは「お前は日本は狭過ぎる、外国でも行け」と言われぼくへ
の褒め言葉と勝手に解釈していた。ぼくは小田実の「何でも見てやろう」
や小沢征爾の「ぼくの音楽武者修行」を何度も読んで絶対に海外へ
行くのだと1人で決めていた。「ガイドプラン」社にいた女性先輩に頼み、
イタリアの新聞社に3行広告を出す事を決め「スポンサーを求む」の
広告を (無料で) 出して下さいと手紙を書いてもらったがもちろん返事が
来る訳がなかった。その頃の日本のテレビで「兼高かおる世界の旅」を
見てイタリア編があるとテレビにしがみついて見ていた。

それからはとにかく日本を出る事、と貨物船の船会社の調べ、東洋汽船
だったか船底で片道6万円でフランスのマルセーユまでの航路を見付けた。
しかしそれ以前にパスポートやビザその他の手続きをしなければならない。
いやその前に英語を勉強しなければいけないと気付き、英語専門の津田塾
へ行って調べると短期間でのコースは月謝がべらぼうに高く、しょうが
なく英文新聞社ジャパン・タイムスに「空手を教えるから英語を教えて」
と3行広告を出した。するとテキサスから来た若いアメリカ人2人から
連絡があり、新宿歌舞伎町のコマ劇場前で待ち合わせをする事になった。

ぼくの道場は新宿にあり、黒帯を取得するとバッジをもらえて胸に付けると
一応新宿では顔になる。待ち合わせ時間になってぼくの前に大きな黒塗りの
キャデラックがス~っと止まった。中から金髪の若い大きな2人の男がぼく
を見てにこやかに挨拶をしてきた。ぼくは少しド肝を抜かれたが平静を
装って助手席に乗り、窓を閉めようとすると自然にス~っと閉まり、これが
自動ウインドーかと思った。ぼくら3人は初顔見せでもあり先ずお茶の水の
ロシア料理店に入り、何が何だか注文も分からず、それでもウオッカなど
を飲んで何とか会話を楽しんだ。

稽古場所は神田で製本業を営む悪友の一人の新しい4階建てのビルの屋上
が道場となった。空手を教えるのは日本語、稽古の後での食事は彼らの奢り
だった。彼らに新しい空手着を揃えて日米語を交えての会話は楽しかった。
彼らをぼくの道場へ連れて見学にも行った。その後彼らは本社命令で帰国
する事になり数ヶ月間の稽古だったが楽しい風景だった。

ぼくの日本脱出は躓きながらも夢だけは大きくなってゆくばかりだった。
その内に東京新聞にアメリカのネブラスカ州、リンカーンという街の
カメラマンのMr. ブッシュ(後の大統領とは無関係)がアシスタントを
募集しているのを見つけ、すぐに「ガイドプラン」社の女性先輩に連絡
をして又英語訳をしてもらい、ぼくの履歴、その他希望などを添え、
デザインの作品も添えて手紙を出した。すると当然かも知れないが驚く
事にMr. ブッシュから返事が来た。その後も何度かの往復書簡があり、
ぼくは着々と準備に備えていた。すると何度目かの手紙から返事が
来なくなり、ぼくの喜びは段々と不安になり、手紙が「受取人不在」
で戻ってくるようになると不安は憎しみに変わっていった。

その上日本脱出にはお金がかかる。それも大分不足していた。悪友の1人
の兄貴は1年前にロスに留学していたが、その知人でケイ・ハラノと言う
女性がおり、彼女はネブラスカ州出身との事を聞き、彼女にMr. ブッシュ
の事を問い合わせてもらった所、既にMr. ブッシュはどこかへ消えて
いないとの事だった。もうぼくの夢は頂点に達し、降りる事は不可能だった。
そんな時、NYで1963年から世界博があり、そこで日本武道として空手の
先輩がデモンストレーションをやっていたが、その相手役としての可能性
が出てきた。ぼくは日本脱出の資金稼ぎで空手の稽古は休みがちだったが、
そのつてで渡米する事になった。

悪友の兄貴の家からロスの友人の兄貴に渡すべく300ドルを預かり、自分の
分は借金や餞別で200ドル、海外への日本円持ち出しの上限が500ドル丁度
だった。パン・アメリカン航空でハワイで数時間の給油、その後ロスへ。
大陸横断は最初歩く予定だったが、その方が日数もお金もかかるので自転車
を考えたが、結局一番安いのは99日以内99ドルというグレイハウンドの高速
バスだった。その手段はどうでもいよいよ憧れの旅立ちだ。

56、アメリカへ続く。

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