17、ジャズ

自分の国にない他国の文化、芸術には憧れがあり、見てみたい聞いて
みたいの羨望がある。それらは海外では日本文化の茶道、花道、和食、
伝統文化や日本武道であり、日本では洋画、オペラ、洋食、ジャズや
ウエスタンと言った事になる。昭和30年代後半の日本はまさにジャズや
ウエスタンが銀座や新宿アシベなどでいかに流行ったか思い出される。

ぼくもジャズに憧れ、1963年だったか新宿厚生年金会館でサックスの
ソニー・ローリンズやサミー・デービス・Jr、ザ・プラターズなどを
5千円もの大金を払って聞きに行った事があった。ぼくは当時小さな
英文のガイドブック社で働いていたので腕にニセの報道の腕章を作って
カメラを借りて最前線で聞いたのを思い出す。

1964年に渡米した時は前の年に黒人街で大規模な暴動が起こった地域
から数ブロック離れた街で黒人が殆ど、他にイタリア人、ユダヤ人が
少数派としていた場所だった。4階建てのビルの最上階で驚く事に7部屋
あって家賃が90ドルだった。そこでは空手の先輩と柔道の同輩と3人で
数年住んでいた。1階はユダヤ人のデリカテッセンがあり、そこから
這い上がってくるのか実にゴキブリの大群が押し寄せてきた。ちなみに
アメリカのゴキは小さく、テントウ虫ほどの大きさである。月に一度の
割で掃除をするが、壁紙の糊まで食い、掃除の度に天井や床にはゴキの
山盛りが何度も出来た。時には安く上げる為のスパゲッティで (1パック
6束入り18セント) 作る焼きそばに天井からポトポトと落ちてくる状態
だった。ゴキを殺すよりも面倒でただ払いのける感じだった。

ここのアパートの1ブロック奥に黒人だけのジャズ・クラブがあった。
ぼくはその頃NYのビールのCMに空手の演武をして出ており、ヤンキース
の (まだメッツは無かった) 試合の各イニングの合間にそのCMが流され
街を歩いていて礼をされる事さえあった。近くの肉屋、八百屋などでも
「今日もお前を見たぞ」とよく言われたが、まだ空手が何か知られて
いない時代でもあった。

柔道のルームメイトと一緒にそこのジャズ・クラブへ行った時はもちろん
白人は1人もおらず、客達は一斉にぼくら2人を見たがジャズ好きな東洋人
として見たのだろうが (日系人人口は1,800人と言われていた) テレビで
見たと言ってはカラテチョップの真似をして受け入れられたようだった。
クラブの入場料はたったの2ドル。当時1ドル360円なので720円である。
クラブの大きさは5,60人も入ればいっぱいになる広さで中はタバコの煙で
もうもうとしており壁、天井などは黒いペンキで塗られてたのか汚れか
分からない。ただそこで演奏していたのはソニー・ローリンズ、
チャールス・ミンガス、マックス・ローチ、ロン・カーター、などなど
後で知ったがコルトレーンやMJQのメンバーなども来ていたらしい。

ここはクラブのサイズからしてもビッグ・バンド・ジャズではなくトリオ、
クワルテット、クインテットなどが適したグループでぼくの好きなサイズ
のバンドである。ここに客或は遊びで来たプレーヤーは自分がリズムに
乗ってくるとステージに登り勝手に仲間になって演奏しだす。その時に
もしぼくがもっとジャズに詳しければいろいろなジャズ・マンを見、聞く
事が出来ただろう。ちなみに後にぼくの娘婿の親父はハーレム出身で
マイルス・デービスの親友でもあった。婿の母親にはクラブで演奏中
マイルスから"This is for you”と言って特別演奏した事があったと言う。

1960年代のNYはグリニッチ・ビレッジがアートのメッカであり、俳優
のポール・ニューマンやスティーブ・マックイーンもここに住んでいた。
ぼくが良く行ったジャズ・クラブはビレッジ・ゲート、ビレッジ・
バンガード、ブルー・ノート、後にセブンス・アベニュー・サウスや
スイート・ベージルなどのクラブにも行ったがデューク・エリントンを
聞いたのは一つ格が上だったのかビッグバンドだからかロックフェラー
センターの最上階にあるレインボー・クラブだった。

ぼくの友人がジャズを学び、9?10アべニューの29丁目にピアニスト
のバリー・ハリス・ジャズ・クラスがあり、一緒に行ったことがある。
そこで無理矢理に下手な”Nature Boy”を歌わされた事があった。
クラスは15人ほどだったが、ジャズ界の一流プレーヤーの指導を受けた
経験は今でも忘れられない。

グラフィック・デザインの世界でもジャズのLP盤デザインが素晴らしく、
デイブ・ブルベックの”Take five”のデザインを手がけたデザイン界の
神様のようなニール・藤田氏からその後いろいろな話を聞く事が出来た。
アメリカと言えども戦後まだ豊かさが戻っていない時期で色も2,3色の
ジャッケト・デザインが多かったがそれなりにシンプルで斬新なモダン・
デザインが多かった。

一度ぼくの尊敬する日本のデザイナー、田中一光氏がNYに来られた時に
ブルーノートにご案内した事があった。丁度その頃にNYから日本の
ブルー・ノートにアーティストを送っていた人が友人で彼を伴った時に、
MJQが演奏しており友人の口利きで演奏後ディナーを一緒にした。MJQ
と言えばジョン・ルイス、ケニー・クラーク、パーシー・ヒース、ミルト・
ジャクソンなどそうそうたるメンバーと我々と同じテーブルを囲んだ。
田中一光氏は1961年にパリへ行った時にもMJQの演奏を生で聞いた事が
あると言うと彼らは喜んでいた。

そのお返しと意味ではないだろうが、日本で一光氏にブルーノートへ
連れて行ってもらった事がある。日本のブルーノートは入場料が高く、
客層が紳士淑女で行儀良く音響効果が増幅されてナマの音が消えていた。
雰囲気が全くNYのそれとは異なり、何か異様な気分だったのを覚えている。
そう言えば田中一光氏の収集した5,000枚以上のジャズのLP盤は氏亡き後
どうなったのだろうか?

又ぼくが親しかったデザイナーの青葉氏がご家族でNYに来た時は
ブラッドリーという小さなジャズクラブへ行ったが30人ほどで客席で
演奏者と客とが普通に会話出来る距離にあり、プレーヤーもかなり有名な
人が演奏していた。そこの壁に飾ってあった、あるピアノを弾く手が
描かれており黒1色での線画が素晴らしかった。もう今はあのクラブは
なくなっている。ちなみにマイルス・デイビスも素晴らしい絵を描き、
使用されなくなった古い地下鉄の駅をクラブにした地下の壁に彼の絵が
飾ってあったのを亀倉先生らと一緒に行った事もあった。

一度日本人ジャズマンがカーネギーホールで演奏する事になりぼくが
デザインと広告、その他をデザインする事になった。彼はカーネギーを
満杯にすると豪語していたが、結果は日本人の友知人だけで客は半分も
入らず、彼は頭に来て演奏途中で舞台裏に引っ込みステージに戻って
きた時はマリファナを吸ってきたのかフラフラしながらメチャクチャに
ドラムを叩き出した。今はカーネギーもお金さえ出せば誰でも演奏
出来るようになったのが残念である。結局その後彼はぼくのデザイン料も
払わず消えてしまった。

よく日本の演歌とジャズの類似性が言われるが全く異なる背景と土壌、
文化であり歌謡曲が演歌と呼ぶようになったのはぼくが渡米後だった。
後輩達が日本から来る度に日本は今何が流行っているのかを聞くのが
楽しみだった。演歌になってからか、男が女の立場で歌う事に変な事に
なっていると思った。そこには「死ぬ」「別れ」「涙」「苦しい」
「つらい」「悲しい」「寂しい」などの悲愴感に酔い知れる部分があり、
そこの部分がジャズやブルースとの類似性なのだろうが、港の男と
夜の蝶の歌ではジャズと全く時代背景が異なる。とは言え、今のぼくは
この演歌が理解出来、好きな歌もある。ただ歌の名称が歌謡曲から演歌
に変わってもその内容は日本の大衆文化の歴史があると思う。これは
ジャズの時代にボーカルが入り、物語を語るようになった時代と似て
いるかも知れない。

( 5, 差別より) 現在の賛美歌は黒人奴隷達によく歌われているが、賛美歌の
多くは奴隷達がピアノの白い鍵盤を弾く事は許されず、黒の鍵盤だけで賛美歌
が作られた。「アメージング・グレース」は黒の鍵盤のみで作られたとの説も
あり悲しげな、しかし美しいメロディーは奴隷達の叫びであったのだろう。

2004年にカリフォルニアのバークレーに移ってからはオークランドに
日本レストランの「よし」があり、そこはジャズクラブをやっており、
ロン・カーターやコルトレーンの息子、最近売れているクリス・ボッティ、
ウイントン・マーサリスの弟ブランドンなども聞く事が出来る。
すぐ傍で本場のジャズが聞けるとどうも日本のジャズを聞く気にならない。
日本にもNサダやHテルなどアメリカで活躍したジャズマンがいるが、
ファンの人達には申し訳ないが、デザイン料を払わずに逃げた奴を考える
とあの程度のジャズマンならハーレムには大勢居ると考えてしまうのだ。

ハーレムへは何度か行ったが冬の夜、数人でたき火を囲んでドラム缶を
叩きながら歌っている凄さは日本のジャズマンでは出来ないと思った。
ぼくはジャズのボーカルは嫌いではないが、それがない方を好むから
かも知れない。とまれ外人が習字や歌舞伎、その他伝統文化をやる事と
日本人がジャズやウエスタンをやるのと似ているかも知れない。最後の
究極の部分が違うと思うのはぼくの先入観と偏見だろうか? 

終。

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