見出し画像

「君の瞳には映らない」の「サヨナラの決め手」はなんだったと思いますか?

はじめに

こんにちは、「品川みく」です。

ふとしたことで小松未歩への愛が一気に湧き出してしまったため、二日続けてnoteに書き留めさせていただきます。

私は10代のころから、小松未歩の曲がとても好きでたくさんの影響を受けてきました。特に私の恋愛観を形作ったのは小松未歩だったのではないかと思います。今回ご紹介するのは小松未歩の「君の瞳には映らない」。恋愛経験を経て私にとってのこの曲の聴こえ方がどう変化してきたのかを語ります。

20年前の解釈:自分の望む付き合い方を押し付けて嫌われちゃった?

「君の瞳には映らない」は失恋の曲です。「瞳に映らない」のは「君」が歌い手のことを愛してくれていないことの比喩でしょう。まだ付き合っていてそばにいることができるのに自分のことを愛してくれていないことに気づいてしまう…なんとも悲しいことですね。

ですが、なぜ歌い手は「君」と別れることになったのか、10代の頃の私はよく分かりませんでした。
ヒントはいくつかあります。まずは歌い出しの「愛しすぎてたのきっと 理想を押し付けすぎたの」というあたり。「君」に自分の望むような形での付き合い方を押し付けすぎて嫌われてしまったのかな、なんて当時は考えていました。例えば、毎日電話してね、デートは毎週しようね、と思っていたけど、彼にとってそれは束縛が強すぎた、とか。
「一番愛した部分(とこ)が サヨナラの決め手なんて」というのは、歌い手が「君」への愛し方を間違えてしまった、ラストの「進むべき道は正しい 最初から釣り合わない二人だったから」というのはもともと自分には不釣り合いなくらい素敵な相手だったからどうしようもなかったんだと思ってなんとか自分を納得させようとしているのだと思っていました。

現在の解釈:君の夢にとって自分が邪魔な存在になってしまった

この曲、現在の私は「君」の夢にとって歌い手が邪魔な存在になってしまったものと解釈しています。

10代の頃は気づかなかったのですが、小松未歩の曲には「自分も夢を追い、恋人にも夢を追っていてほしい」という価値観が描かれていることがとても多いのです。でも、よく考えるとこれってものすごく難しいこと。自分も彼も恋と夢なら夢を優先してしまいます。だから、二人が付き合っていられるためには、二人とも夢を追い続けることができ、かつ、お互いにとって夢の実現に近づけるパートナーであり続けなければならないのです。

当時10代の私はそのことを知らぬまま小松未歩の曲を何百回も聴き込み、無意識のうちに「自分も夢を追い、恋人にも夢を追っていてほしい」という恋愛観を自分のものとしてインストールしていました。その結果、どうなったか。まさに小松未歩の描いた物語のように失恋してしまうのです。

まずは曲の解釈からお話しします。現在、私は「君の瞳には映らない」は「君の夢にとって自分が邪魔な存在になったために別れることとなってしまった」曲だと解釈しています。

歌い手は「自分も夢を追い、君にも夢を追っていてほしい」と思っていました。君はそれを受け止め、夢の実現へと近づいていきましたが、歌い手は燻っており、次第に(夢の実現の度合いとして)君と釣り合わない存在になってきてしまいました。そんな中で、歌い手が懸命に愛し、一緒に夢を叶えようと伝えあってきた価値観が逆回転をはじめてしまいます。そう、自分が掲げた理想(一番愛した部分)を自分が満たせなくなったことが「サヨナラの決め手」になってしまうのです。

君と別れることとなった原因は自分が掲げ君をも形作ってきた価値観。だから別れという「進むべき道は正しい」。今となっては「最初から釣り合わない二人だったから」。そうと分かっていても抑えられないこの気持ちをいったいどうしたらいいのでしょう。

この曲は、本当にいろいろ申し訳ないんですが、私の大学時代の恋愛の終わりを当時の恋人の側から歌ったものだと思うとしっくりはまるのです。

大学時代、付き合った恋人との間で語り合った夢は、私の側だけ実現に近づいていきました。付き合った当初は互いに励まし合った関係もだんだんと妬みを感じるようになってしまい、私は段々と今の恋人との未来を見通せなくなっていきました。これを当時の恋人の側から見ると、まさに「君の瞳には映らない」だったと思います。

小松未歩の恋愛観はすごく素敵なのだけれど…

「自分も夢を追い、恋人にも夢を追っていてほしい」。小松未歩が描く恋愛観はすごく素敵なのだけれど、そんな恋を長く続けるのはとても難しいものです。夢を叶えるために遠く離れた地に旅立つ必要があることもあれば、夢の実現度合いに大きな差が開いてしまうこともあります。もちろん、どちらかが夢を諦めてしまうことだって。

恋愛にそこまで多くのものを求めなくてもよいわけですが…全国数千人(すべてのCDを持っている人とするとこのくらいです)の小松未歩の熱烈なファンの中には、それゆえに自身の恋愛で苦しんだという方も結構いるんじゃないかと思っています。

もちろん、これは私によるひとつの解釈。小松未歩からもっと違う恋愛観を感じ取った方もいらっしゃると思います。どういう解釈をするかは自由ですが、私の場合は、時間を経て同じ曲が違ったものとして聴こえてくるその変化がとても面白いのです。こうした話、少しでも面白いと思ってもらえる人が少しでもいたら私はとても嬉しいです。

それでは、また。