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恋より夢を選ぶ強い意志を明るく歌い上げた小松未歩「チャンス」

簡単な自己紹介とnote投稿のコンセプト

はじめまして、品川みく、です。

先週土曜日に放送されたラジオで小松未歩の「チャンス」の制作秘話が明らかにされたのをきっかけに、23年を経て懐かしい思いが込み上げてきて、noteをはじめさせていただくことにしました。

「みく」のペンネーム(ハンドルネーム)はこの「チャンス」が放送された1998年ごろ、私が中学生だった頃から2010年ごろまでの間、インターネット上で好きなものを好きなように表現するために使っていた懐かしい名前です。

その後、文章を書くことが仕事になるなかで10年ほど趣味としてのネット上の創作からは離れていました。けれど、たとえ数人であっても自分の好きなものへの愛を語り、それを共感してくれる人と出会えたら素敵だなと思い、懐かしい気持ちの高まりとともにふたたび筆を取らせていただくこととしました。

noteでは、私が一番好きなアーティストである小松未歩を中心に、2000年前後のビーイング作品への愛を語らせていただきます。私は10代のころから、歌詞にどんな物語が描かれているのか、音楽の「物語性」を重視して聴いています。しかし、何十回も聴き込んで必死に歌詞カードを見つめていても10代の読解力や人生経験のなかで読み取れるものには限界がありました。恋愛経験、社会経験を経て大人になったいま、改めて当時の曲を聴いてみるとまったく違った物語に聴こえてくることが珍しくありません。知らない人はまったく何のことか分からないと思いますが、何人かのコアなビーイングファンにエッセイを楽しんでもらえたらうれしいなと思います。

さて、前置きが長くなりました。記念すべきエッセイの第1作目は小松未歩の「チャンス」です。

23年前の解釈:君が落ち込んでいるときが距離を詰めるための「チャンス」

1998年度のめざましテレビのテーマソングに使われ、小松未歩としては最高位のオリコン週間3位を記録したヒット作。朝から元気をもらえるような明るい曲なのですが、歌詞に「誰より好きな君の絶望」とさらっと怖い言葉が入っていることに気づいた方はいるでしょうか。

中学生当時の私は、これを「君」の夢がひとつ潰えたことだと解釈していました。つまり、「君」が落ち込んでいる時が歌い手にとって「君」との距離を詰める「チャンス」であり、「今度こそ大丈夫」は歌い手が君に対して励ましの言葉をかけているシーンだと思っていました。この解釈でも、一応1曲全体で意味が通ります。「“友達のままじゃ”切り出した君を今胸のアルバムにしまう 自分探しに行こう」は、友達であった君との関係に区切りをつけ、恋人としての関係をスタートさせるもの。「君」との関係性のなかで新しい自分を見つけに行こうと明るく歌い上げるのです。

現在の解釈:チャンスは君との関係の外にある

この曲の発表から23年が経ち大人になった私は当時とは違った見方をするようになりました。それは「チャンス」は自分の夢が叶いそうなチャンスであり、この曲は好きだった「友達」を振り払うように別れて夢へと突っ走る姿を描いたものではないか、というものです。

当時の解釈でまずひっかかったのは、「誰より好きな君の絶望」のところでした。「今度こそ大丈夫」と慰めることが関係性を詰める「チャンス」になるようなら果たして「絶望」という強い言葉を使うでしょうか。もちろん使う可能性はありますが、その程度なら「失敗」くらいの言葉を使うんじゃないかなぁという気もします。「絶望」という言葉が出てくるのは、歌い手が「君」に別れを告げたからであり「今度こそ大丈夫」とは「君」に対して「今度(の恋)こそ大丈夫」と伝えているのではないでしょうか。

「“友達のままじゃ”切り出した君を今胸のアルバムにしまう 自分探しに行こう」は、友達としての関係性を終え恋人になると解釈できないこともないですが、「胸のアルバムにしまう」は一般的にはそれを過去のものとする表現です。「友達のままじゃ」と恋人になろうと切り出した君に対して歌い手は別れを告げてそれを思い出にして、自分を探しに新たな挑戦に飛び込むことにしたと解釈する方が自然な気がします。

すると1番の不思議な歌詞だった「回る地球をこの手でつかむ んなこと無理でしょ」というのは、「回る地球=変化する自分」を「この手でつかむ=君が一箇所に繋ぎ止めておく」ことに対して「んなこと無理でしょ」と突き放しているシーンがイメージ出来てきます。そんなことを言われてしまったら、「君」が「絶望」するのもよく分かります。

つまり、「チャンス」は自分の夢へのチャンスを前に、「いまの恋よりも私は夢を選ぶ! 私の人生は自分で決めるんだから!」という力強い意思が明るく歌い上げられている曲…なのだと今の私には聴こえてきます。

おわりに

小松未歩本人が語らない以上、どちらの解釈が正解というものではありません。また、もっと違った解釈をしたファンもいるものと思います。どういう解釈をするかは自由ですが、私の場合は、時間を経て同じ曲が違ったものとして聴こえてくるその変化がとても面白いです。

知らない人にはまったく分からない話。でも、ひとりでもふたりでもこういう話を面白いと思ってくれる人がいたら、こうした話を続けていこうかなと思います。それでは、また会う日まで。