見出し画像

名文貼る(And just enjoy yourself /孤児には私がいない)

少し疲れた中でTwitterをやっていると、多くのことを自分の重力に引き付けて解釈する。その中でふと思い出した22歳ごろの自分の文章があった。
(あえて未熟な文とは言わない。これを超える文章を生涯書くことはないだろう。)


男と女、手をつないで寄り添った二人がその街を歩いていた。
彼らは孤独だった。なぜなら、彼らが孤独でない世界のことを私はわからないからだ。
そして孤独である以上のことを記されなかった彼らは、別の世界に記された人間の描写を、美しいけれど、生涯行くことのない遠い土地のように眺めていたのだ。
しかし彼らにその何がわかるのだろうか、彼らは孤独であること以外を許されていないのに。追憶や郷愁をする対象など何もなかったのだと、魂を賭けるべきものなど何もなかったのだということを、暗い夜にいる彼らを縁どる街の灯のようにぼんやりと感じながら。



さて、愛とは何かを考えたことがあるだろうか。
愛されしものかどうかは、本人にはわからないことだ。それは結果のみ、つまり行動モデルに現れる。

私が思うに、愛とは赦されることだ。

基本的に、人間というのは役割でできている。
その人間がどのようなものか?という問いがあれば、生得的な本能はこのように質問を変換する。
「その人間はある場所において、どのような役割を果たしているのか?」

画像は『トライガン・マキシマム』8巻より

『バーフバリ 王の凱旋』という一時期話題になったインド映画がある。
あらすじはほぼ『ライオン・キング』なのだが、この映画を特徴づける要素は「主人公の父親と、父親の復讐をして王の地位を取り戻す息子の俳優が、変わらない」ということだ。見た目も服装以外全く変化がない。

これはインド神話のような古典的な世界において、人間というのは役割で規定されるものであって、自我のどうこうで規定されるものではないことを表すと考えている。

愛の対義語は滅私である。
さきほどの画像は『トライガン・マキシマム』において、孤児を引き取り、「完全なる滅私」によって仕事をさせる組織の画像だ。

さて、平成を代表する漫画こと『銀魂』の話をさせていただく運びとなる。

画像は『銀魂』アニメ178話より 「地雷亜」

『銀魂』の主人公、銀さんは、孤児であり、吉田松陽先生に引き取って育てられた。
(もし名前に違和感を抱くようであれば、きっとあなたは令和の存在だ)
しかし冷静に考えると、銀さんという人物はキャラクターとその背景が、全く剥離している。
これは連載漫画なので作者がテキトーに設定を後付けしたものであろうが、まあ彼もそんな指摘も受けて冷静に孤児とは何かを考えたのであろう。
地雷亜編という長編で、銀さんの鏡合わせのような人物が出てくる。

(この地雷亜編という話は、いわゆる腐女子にすこぶる評判が悪い。銀魂ファンは8割女性なので、つまりこの話が好きな人物は、私以外に存在しないと推定される。その理由は特定のヒロインが活躍するからでもあるのだが、根本的には愛を描いた話であることがきっと関係している。)

地雷亜というキャラは、「滅私」を掲げ、自分の顔を焼いた。
彼は幼い頃に親を、身寄りを亡くし、仕えるがままになったのであるが、
その後、「完全なる滅私」で主人に仕えた後、主人を亡き者にする行為を行うようになった。

人は役割を憎んでいる。

さて、最後にもういちど結論を述べることとする。

愛とは赦しだ。ひとは、誰かに「自身」を赦されるまで彷徨わなくてはならない。

Twitterに限らず、ネットの海では「女垢」に自己自身の人物判定基準を超えて甘い男アカウントと、それに甘える女アカウントを見ることがあるであろう。
そのような性欲クラスタは、なぜ性欲を発揮することができるのであろう。
独身なら合理的だが、既婚者おじさんであれば、それを発揮したとしてもプラスの出来事は何も起こらない。

私はこれを尊敬する。彼らは正しく受け止めている。感情を、動機を。
何のねじれもない純粋さ。そこが純粋でなければ、なぜ彼らがそれをやっていてそうまで苦痛がなく、楽しいかどうかを理解できない。

それは私があるということだ。私というものは誰かに赦されなければ誕生することができないのだ。

私というものがなければ、人は合理的な品評者であることを余儀なくされ、性愛においては自分自身がただの道具になるのだ。
愛されるというのは、私自身を赦されるということだ。

孤児とは私が赦されなかった者たちのことだ。
私が赦されたものは、孤児ではない。
孤児ではなくなるのだ。

https://www.youtube.com/watch?v=_hI0qMtdfng


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?