Day by Day 2023-09-14 サリヴァンに牽かれてルバイヤート詣で
グレイトフル・デッドのことを調べていて、Estación Terrapinというブログに飛び込んだ。
スペイン語なので、文章はさっぱりわからないのだが、そもそもデッドの検索でヒットしたのだし、トップのグラフィクスはデッドの亀(彼らのアイコンのひとつ。アルバムTerrapin Station以来、骸骨、熊などと並び、しばしばカヴァー絵に登場している。Estación TerrapinはTerrapin Stationのスペイン語訳らしい)だし、大量の絵が並べてあり、この人が云いたいことはそれで十分に理解できた。
どういう話をしているかというと、デッドの71年のエポニマス・タイトルのアルバム、Grateful Dead(通称Skull & Roses=骸骨と薔薇)のカヴァーおよびそのもとになった66年のアヴァロン・ボールルームでのライヴのポスターはE・J・サリヴァンの絵がもとになっており(ここまでは周知で、わたしも知っていた)、その絵というのは、英訳『ルバイヤート』の挿絵として描かれた。これは現在、Internet Archiveにアップされている――ということだ(後半では亀アイコンの源流を明らかにしている)。
英訳ルバイヤートのために描かれたというのははじめて知った。さっそく、IAを訪問、PDFやjp2画像をいただき、開いてみて納得、ちゃんとあの有名な骸骨が出てきた。
挿画だけざっと見たが、骸骨はあちこちに顔を出すし、もうひとつの重要なデッド・モティーフである薔薇も数か所に散見される。
昔、新音楽の雑誌や旧盤蒐集の雑誌の編集長だった評論家がいらして、あの人の臍の緒を埋めた上を骸骨でも歩いたのか、ことあるごとにグレイトフル・デッドとジェリー・ガルシアを罵倒、糾弾していた。
ついでに云うと、あの人はアル・ハートのことも、人類の敵であるかのようにボロクソにこき下ろしていた。アル・ハートは史上最もピッチのいいトランペット・プレイヤーで、あまりにも精確なのが非ジャズ的で気に入らなかったのじゃないかと想像する。マイルズ・デイヴィスあたりとはレベルが三段ぐらい違うハイテクニックの持ち主だった。
その編集長が、デッドは他人の絵を盗んだ、と云って、鬼の首を取ったかのように(クリシェ失礼!)糾弾したのが、このエポニマス・タイトルのダブル・ライヴ・アルバムのカヴァーである。曰く、これはサリヴァンの絵であり、この盤にクレジットされているデザイナーの絵ではない、デッドは盗人だ、お前らデッド・ファンはみんな馬鹿だ、ガルシアなんてただの頭空っぽのギター弾きじゃないか、それを哲人か導師のように崇めるなんて愚かにもほどがある、とかなんとか、もうエラい剣幕。
何が理由で彼がデッドとガルシアを憎むようになったか、いまだに知らないのだが、とにかく激しやすい人で、気に入らないと自分の雑誌を使ってとことん攻撃した。
ガルシアのギターはけっこう好きだ、フィル・レッシュのベースはすごい、ビル・クルツマンはバンドのドラマーにしてはめずらしくタイム精度が高い、ぐらいにしか思っておらず、何によらず、宗教的なことは嫌い、英雄崇拝もバカのやることと思っていた高校生のわたしは、こういう激しく憎悪、罵倒する人のやっている雑誌は読まないに限る、と思った。
あの人は、コロンビアの配給権がソニーに移り、はじめてディランのカタログが米盤そのままの形でリリースされた時、ライナーを書き、ディランは神だ、みたいなことを平然と云ってのけた。こんな甘っちょろいディラン狂信者に、デッドのファンは愚かな狂信者などと罵倒される謂れはない。
まあ、いいや(と思いだし怒りで血圧が上がったので自分を宥めた!)。スタンリー・マウスとアントン・ケリーの二人は、1966年9月のアヴァロン・ボールルームでのデッドのライヴのポスターを制作した時、サリヴァンの遺族に連絡を取って許可をもらい、著作権料を払ったとは思えない。だから、盗用なのだろう。あのサイケデリックの時代に彼らが無数につくったポスターは、どこかで見つけた古いアイコンを彼ら流にアレンジしたものがほとんどだった。それはそうだ。時間も金もかけられない状況なのだから。
サリヴァンの絵はあの時まだ著作権が存続していたはずで、遺族が訴えれば、あるいは勝訴した可能性もある。ただ、ポスターの時点、1966年に勝訴しても、たいした額にはならなかっただろう。まあ、マウスとケリーを破産させるぐらいのことはできたかもしれないが。
むろん、それをLPカヴァーに応用した1971年になれば、訴訟の相手は発売元のWBを含められるから、巨額の賠償金もありえたかもしれない。しかし、モノクロの版画に素晴らしい彩色をしたのはマウスとケリーで、二次著作権が生じている。結審にはたっぷり時間がかかったに違いない。
単なる結果論に過ぎず、恐縮ではあるが、サリヴァンはマウスとケリーによってグレイトフル・デッドの有名なアルバムのカヴァーに「引用」されたおかげで、いまでも忘れられずにいて、Internet Archiveにもその作品が収録され、極東の小島の年寄りまでもが、このように、サリヴァン、サリヴァンと、知り合いのように名前を連呼することになったのだから、まあいいじゃないの、と思う。
逆のケースを考えてみよう。マウス/ケリー/デッドはサリヴァンの骸骨と薔薇の絵を採用せず、かわって、アヴァロンでのライヴのポスターに、たとえば、国芳の髑髏絵の一枚を採用したとしよう。国芳の名声はそのようなことに左右されなかったに違いないからそちらは無視する。しかし、デッドのカヴァーに採用/盗用されなかったサリヴァンは、その事後的に付加されたアクチュアリティーを失い、いまではめったに語られることのない、マイナーな画家になっていただろう。
むろん、それでけっこう、という考え方もあるだろうが、わたしは、過去の文化はこういう形で後世に痕跡を残すものだと考えているので、サリヴァンの絵がみごとに着色され、デッドのアルバム・カヴァーとしてよみがえったのは、とてもいいことだったと思う。
サリヴァン挿画の英訳ルバイヤートをながめて、文字数は少なく、すぐに読めそうなので、IAでもらったPDFを読んでみようかという気になった。さらに、念のためにと検索したら、青空文庫に古い邦訳ルバイヤートが収録されていた。いつものように、邦訳と英文を比較対象しながら読めるとなったら、これはもう読むしかない!
デッドのおかげでサリヴァンを知っただけでなく、ウマル・ハイヤーム(わたしらが習った教科書にはオマル・カイヤームとあったと思うが)も読むことになるわけで、つまり創作物というのは、そういう形で命脈を保つ、ということだ。憎悪したり、排斥したりせずに、そういう面を読み取るのが、評論の役割じゃないのでしょうかねえ。
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