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キツい人生と地面のあわい:マイケル・ブルームフィールドとの「和解」

◎わが十代のギター・エース

ブルームフィールドを聴いたのは1968年のことだった。盤はポール・バターフィールド・ブルーズ・バンドのセカンド、かのEast-Westだ。子供なので金がなく、ジミー・ヘンドリクス(Jimmyの綴り替えにすぎないJimiを「ジミ」とするのは好かない)のAxis: Bold As Loveとどちらを買うか悩み、レコード屋で両方を試聴させてもらった。


Jimi Hendrix - Axis: Bold As Love日本盤デザイン。日本ポリドールはデザインを変えてしまうことで悪名高かった。これも曼荼羅図の英盤とはぜんぜん違う。


The Butterfield Blues Band - East-West マイ・オール・タイム・ベストの一枚。ブルームフィールドばかりでなく、ポール・バターフィールド、マーク・ナフタリン、エルヴィン・ビショップ、みな素晴らしいプレイをしている。試聴して、こちらを落としてしまったというのは、相手がヘンドリクスの傑作だからやむを得ない仕儀だが、それにしてもなんと贅沢な時代だったことか。


PBBBのほうはスネアのチューニングが低いのが好みではなく、スネアのピッチも高く、ちゃんとスネア・ワイアがシャーンと鳴っているジミーのほうを買った。しかし、マイケル・ブルームフィールドのギターには大いに惹かれ、結局、それから数か月後、トレードで友だちから手に入れた(自分が何を手放したのか記憶にないのは遺憾である)。

ここがスタートなので、ブルームフィールドのギターは「ああでなければいけない」と半世紀以上思っていた。具体的には、PBBBの2枚、イレクトリック・フラッグのファースト、Super Session、The Live Adventures of Mike Bloomfield and Al Kooper、ニック・グラヴェナイテス(十年ほど前に発音を調べた。じつに意外な結果でびっくり仰天した。半世紀近くの長きにわたって、Gravenites=グレイヴナイツと思っていた)との双頭バンドによるワン・ショット・プロジェクトのLive At Bill Graham's Fillmore Westだ。


Michael Bloomfield with Nick Gravenites - Live at Bill Graham's Fillmore West 1969
アル・クーパーのせいだと思うが、なぜかブルームフィールドはレス・ポール・ゴールドトップと結びつけられている。しかし、写真が残っているのは圧倒的にサンバーストであり、ここでもやはりゴールドトップではない。Super Sessionもサンバーストのレス・ポール。


最初のソロであるIt's Not Killing Meも、ここに入れるべきなのだが、わたしにとってはやや特殊な位置にあるLPなので、理由は後述することにして、いったん除外しておく。

◎彼の変化、こちらの変化

Jimi Hendrixは宇宙人、別格として棚に祭り上げるなら、中学から高校にかけて、いちばん好きなギター・プレイヤーはマイケル・ブルームフィールドだった。それなのに、生来好奇心が強く、しかも十代の子供、さまざまなことに首を突っ込みたがるからか、時とともになんとなく関心が薄れてしまった。その後の盤を聴いた友だちも、つまらないよ、と素っ気なくて、KGBもソロも買わなかった。


ハスケル・ウェクスラー監督、マイケル・ブルームフィールド音楽監督『Medium Cool』(邦題は、アメリカを斬る、とかなんとか。配給会社はこのタイトルがマクルーハンの引用だということを理解していなかったのだろう)。ブルームフィールドが音楽をやったと云うので、映画館に行った。音楽にはさして感銘を受けなかったが、子供はハスケル・ウェクスラーの名前を心に刻みつけた。警察無線を常時傍受し、事件事故があれば、アリフレクスの16ミリを担いでどこにでもすっ飛んでいき、フィルムに収めるや、即座にテレビ局に売る、という仕事にはあこがれた。いまでもアリフレクスを見ると、ああいう仕事をやりたかった、と思う。


CD誕生以後、昔の盤が簡単に手に入るようになり、ブルームフィールドもKGBとあとひとつ何か買ったのだが、ともにピンと来なかった。ウェブの時代になってからは一気に増えて、30種かそこら聴いたが、惰性にすぎず、心から楽しんでいたわけではない。

ただ、十代のうちに買ったのに、カントリー曲が多いのと、ブルームフィールドの唄がしっくりこず、箪笥の肥やしになっていたIt's Not Killing Meが面白く聴けるようになったのは大きな変化だった。しかし、70年代以降のアルバムは、依然として靄の中にたゆたい、こちらの思考の焦点は合わなかった。


Michael Bloomfield - It's Not Killing Me 最初の単独名義の盤だったが、いきなりカントリー・チューンが流れて、えええ、なにやってんのよ、だった。いまでは好きな盤なのだが。


◎地面の下へ

それが、昨日、未聴のアルバム、Between a Hard Place and the Groundを聴いていて、ふいに、ある理解に到達した。

タイトル・トラックは以前から知っていた曲だが、ちゃんと考えたことがなく、改めて、これはどういう意味なのだろうと思い、歌詞をまじめに聴けばわかるだろうと、いつもの「粗放農業」スタイル・リスニング、聴くでもなく聴かぬでもなく、ただ流していて、ふと何かが耳が止まればよし、引っかかるものがなかったなら、縁がなかったと忘れる、という聴き方ではなく、子供の時分のような、高い金を払った盤を聴くスタイルで、注意深く聴いてみた。

中身は典型的なブルーズで、

Well, I have some blues in my life
Never, never been in this far down
Well, you know this time the life situation put me between a hard place and the ground
I was broken and didn't have no money
but that didn't the landlord comin' 'round

というような、一文無しになった男のボヤキ節。真剣に聴いてみて、このhard placeは現世、浮世のことであり、groundは地面、すなわち地下、墓穴のことと知れた。金がないから、つらい人生と墓穴との中間を這うような羽目になったという、どこからどう見てもブルーズ以外の何物でもない歌詞だ。


Mike Bloomfield - Between a Hard Place and the Ground 76年にも同じタイトルのアルバムがあるのだが(あちらはマイクではなく、マイケル・ブルームフィールド名義)、これはそれとは異なる、没後の落穂拾い編集盤。


わたしはずっと、ブルームフィールドをブルーズマン、すくなくともブルーズ・ピュアリストとは考えずに来た。それは、ひとつには最初に聴いたのが、ブルーズではなく、East-Westという、コードのない「モーダル」な曲だったせいだし、その後もアル・クーパーとの2枚のアルバムでブルーズではない曲をいくつも聴いたし、ブルームフィールド自身のバンド、イレクトリック・フラグも、純粋なブルーズ・バンドではなく、折衷的なサウンドを目指していたからでもある。


1965年、ニューポート・フォーク・フェスティヴァルでのマイケル・ブルームフィールド(左端、フェンダー・テレキャスターを弾いている)とボブ・ディラン(センター・マイク)、ドラムとベースはポール・バターフィールド・ブルーズ・バンドの二人だろう。


◎ブルーズマン

しかし、70年代以降のアルバムは、ほぼブルーズ一色だ。結局、ブルームフィールドは、ブルーズからスタートして、若くしてあの疾風怒濤の時代に遭遇し、抗えないほど強い力でポップ・ミュージックへと引き込まれていったが、途中で、これは違う、俺の好きな音楽はべつにある、と気づいて、引き返したのではないか?

Between a Hard Place and the Groundの歌詞を聴きとろうと、意識を集中してブルームフィールドを聴いているうちに、彼の心情を聴いているような気分になった。初期の華やかなスタイル、われわれの心をとらえたEast-Westでのサウンド、弾き方は、彼自身がまだ若く、時代の気分につかまって、ポップ・カルチャーのほうに引き寄せられた結果であり、嵐が去ったあとで、ふと、自分自身を見失っていたことに気づいたのではないだろうか。


ニューポート・フォーク・フェスティヴァルに先立つ、NYのCBSスタジオにおけるHighway 61セッションでのディランとマイケル・ブルームフィールド。このときは、ただプロとしてスタジオでギターを弾けることを喜んでいただけだろう。まあ、プレイ自体は控えめだが。


70年代なかばあたりの地味なギター・サウンドによる、ブルーズ一辺倒のアルバムは、故郷に帰って、舞台衣装を脱ぎ(いや、もともとブルームフィールドは舞台衣装と云えるようなものを着たことはないようだが!)、普段着になって、子供のころにやっていたような音楽に戻った姿だと見れば、いちいち納得がいく。ギター小僧の神様なんかにはなりたくなかったのだ。ただ、自分が好む音楽をやりたいだけであり、それでスターになったり、大金を得たいなどとは思っていなかったのだろう。

いまでも忘れないのだが、69年だったか、植草甚一が「スイングジャーナル」のコラムでブルームフィールドを取り上げ(Super Sessionのことだったと思う)、そのギター・プレイを「露出狂的」と評していた。あの時は強い違和を感じたのだが、つまり、自分の持っている技術を残らずすべて見せるような、恐るべき高みにあるプレイ、という意味だろう。


云わずと知れたSuper Session アル・クーパーは自伝で、ブルームフィールドの才能を押し出すのが目的の企画だったと云っている。ディランのセッションで彼のプレイをはじめて目の当たりにしてショックを受け、あわよくばと思ってギターを持ってセッションに出かけたことを後悔したそうな。まあ、それであのLike a Rolling Stoneのオルガン・プレイが生まれ、一夜にして引っ張りだこのキーボード・プレイヤーになったのだから、結果オーライなのだが。


われわれが彼を知ったころは、天下にわが名を知らしめようと野心に燃える若いプレイヤーの弾き方をしていたのだと、いまにして思う。ブルームフィールドがそういう弾き方をやめると、わたしは関心を失ってしまった。

◎Still, it's not killing him

子供のころから見切りが早く、本でも音楽でも映画でも、ひとつ駄目だと、それでもうその作者への関心を失った。ブルームフィールドも、It's Not Killing Meでの変化に失望したのがきっかけで、聴かなくなってしまった。

ただ、あれは「駄目になった」わけではなく、違うスタイル、本来のブルーズマンへの回帰の途中経過にすぎなかったのだと、いまにして思う。たいていの場合、見切りが早いのは間違っていなかったと思うが、ブルームフィールドについては――いや、やはり仕方ないか。彼の心の中にこちらの想像力が届いたのは、年を取ったからであって、若いころには無理だ。昔を今にかえす由もがな、所詮、未練と知れ、である。


1965年、やはりニューポート・フォーク・フェスティヴァルでのピーター・ヤーロウとブルームフィールド。これがきっかけなのだろう、のちにブルームフィールドはポール・バターフィールドとともに、PP&Mのセッションに呼ばれることになる。


未練ではあるけれど、久しぶりに初期のプレイをすべておさらいしてみると、やっぱり、これほど流麗で、センジュアルといっていいまでにエロティックなギター・サウンドをつくった人はいなかったと、溜息が出る。空前絶後のギター弾きだった。

半世紀の時間が流れてみたら、若いころは拒否してしまった後年のブルームフィールドの音楽と「和解」できた、ということを書きたかったのだが、60年代の全作を聴き直して、やっぱりすごい、となってしまった。いずれ、もう一度、若き日のことを書こう。

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