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犬と走馬灯

いつか昔、おじいちゃんが「人が死んだら、生きていた時の一瞬一瞬の記憶がよみがえる」って言ってた。犬が死んでからの3日間、私の頭の中では、すっかり忘れていた犬との出来事が走馬灯のように駆け巡っている。私は死んではいなけれどね。

北海道のボロい青い家で鹿の足をひたすら食べていたこと。京都のマンションのベランダで赤くなったばかりのイチゴを食べられたこと。長野の里山で小さな子どもの歩調に合わせて歩いてくれたこと。そんな、記憶の片隅に取り残された小さな犬の姿が、私の脳裏に映し出されている。

15年間共に暮らしてきた犬が死んで、わたしの中のどこか一部分も死んでしまったんだと思う。だから私の内面でも、思い出が走馬灯のように現れては消えて、現れては消えていくんだと思う。

8月に入った。軒先のツバメの赤ちゃんは親鳥の到来を待ちわびて、巣から顔を出している。長男の猫はお腹がパンパンに膨れて、いつ出産してもおかしくないほどソワソワしている。新しい命の足音が聞こえてきそうなのに、期待に満ちた新しい命でさえも、犬が死んでしまったことへの喪失感を埋めることはできない。だからこそ、何者も、誰かの命の代わりにはなれないというのを、身に染みるように実感する。

犬との15年分の思い出が一気に駆け巡った。いかにも喪に服した悲しみに嗚咽するようなこともなくなった。ようやく気持ちが落ち着いた。明日は眺めの良い丘の上に穴を掘って、犬を埋めてあげるつもり。墓標代わりのリンゴの木も用意した。すみわたる青空に見守られますように。

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