2018年年間ベストアルバム補遺1

書き上げたものから出していかないと聴くのも文章を詰めるのもキリが無いので、補遺から先に出すというおかしな事になったがそこはよしなに。

三浦大知 - 球体

Twitter上でリスナーとして信頼の置ける方達が絶賛していたので、どうにかそこまでの魅力を見つけたいと思ったが、年間ベスト上位に入れるまでの物は掴めなかった。

いや、好きか嫌いかで言えば間違いなく好きだ。そして、私も三浦と年齢が近いので小学生でデビューしたFolderからの活動は一応把握していたが、いかにもAvexな自分とは縁遠い音楽と認識していただけに、こんな音を出せるのかと不勉強を恥じると共に嬉しい驚きがあった。さらに言えば、このような挑戦的なサウンドがオリコン5位と幅広い層に届いている事も非常にポジティブだと思う。

しかし、個人的に絶賛する方々ほど入れ込めなかった部分がどこかと言えば、まずは歌メロや歌唱表現のドラマティックな感覚に対してサウンドがスマート過ぎるように聴こえるトラックが多い、つまり歌とオケのバランスだ。ただその点においても上手く行ってると思う曲はある。その筆頭が「テレパシー」。これは手放しに素晴らしい。「胞子」や「綴化」もトラックと歌唱のバランスが良い。逆に人気の「飛行船」等はそこにチグハグさを感じた。

ただ上述の点はは好みとしても、ーーまして歪んだナショナリズムが跋扈する現代においてはーー純邦楽器の表層的に過ぎる使い方はもう少し批判があっても良いのではないか。個人的に、特に雅楽や尺八など高等芸術的な在り方だった音楽を中心とした純邦楽の現代的な解釈としては坂本龍一の近作が最も素晴らしい解釈だと思っているのだが、これは市場へのアピールをほぼ無視した音楽なので三浦のようなスタイルで参照できないのもやむなしかとは思う。まあ「朝が来るのではなく、夜が明けるだけ」のような音数の少ないスローバラードでは坂本から学べるものもあるのではと思うが…

それはさておいても、純邦楽器が現代的な電子音の上で、しかもポップなスタイルで存在できるという好例を示した楽曲が同じ2018年に出されている。上妻宏光の「AKATSUKI」だ。先に言ってしまえば収録アルバム『NuTRAD』は各曲の質にバラつきがあると思ったので選外にしたが、そのアルバムの冒頭を飾る「AKATSUKI」は2018年の邦楽におけるひとつのランドマークと言えよう。

雅楽器や尺八と比べもとより庶民に近い三味線という事もあろうが、なんと本格的なFuture Bassトラックの上で純和風な音色が踊ってこんなに自然に聴けるとは思わなかった。これが実現できたのは主役の上妻が言わずと知れた名演奏家、つまりフィジカルな技術を持つ故で、DAWに向き合うプロデューサーであるNao’ymtに同じことは出来ないという向きもあるかもしれない。しかしヒップホップはもう30年に渡って名演奏家の演奏をサンプリングして再構築するノウハウを積み上げており、またアプローチが違えど坂本も純邦楽器に関しては演奏技術を持たない中であれだけの事を成し遂げたのだから、ここに関してはもっとやれたはずと思わざるを得ない。

また、年が明けた2019年1月、三浦大知が天皇陛下の即位30周年記念式典で歌唱を披露するというニュースが世を賑わした時、私の観測範囲において少なくない数の「ショックだ」という反応が見られた。誤解されたくないので私的なスタンスを前置きしておくが、私はリベラル左派を自認していて、その上で左派という看板を掲げつつ「やれやれこれだから左翼は」と振る舞うような中立幻想の風潮に乗るつもりも無い。現政権の殆どの政策には反対であるし、ネトウヨの撒き散らすヘイトも表現の自由などとして黙認すべきで無いと断固として主張する。しかし、スポーツのナショナルチームには熱狂してしまうし、直接政権に関わらない形でなら皇族という王族が国家の象徴として保たれるのも悪い面ばかりでは無いと思っている。まあ、その在り方がこのままでいいとは微塵も思わないが。

閑話休題。三浦の話に戻ろう。前述のように本作では表層的な形で純邦楽器が使われているし、三浦自身日本の悪しき旧弊の吹き溜まりのような芸能界という世界で幼少から育っている。更に、直接的なコンタクトは無かった模様だが、悪質な差別発言を繰り返す高須克弥が協賛するイベントに出演してにわかに批判もあった。繰り返すが本作も好き嫌いで言えば迷わず好きと言えるだけに、そのような存在と深い繋がりがあるとは思いたくないがしかし、少なくともそういう繋がりを徹底して避ける等の露骨に左派的な振る舞いはどこにも無かったはずである。そんな人物が、現政権への牽制的な言動も目立ち左派の一部からも支持層が生まれている今上天皇と共演する事に対して、予測できないのは無理からぬとしても「ショックだ」というような反応は三浦に対して自らのイデオロギーを寄せた幻想を見過ぎていたのではないか。

そこで私が思ったのは、Folderの延長線上的Avex旗艦グループの血脈を継ぐAAAに参加しつつも、リベラルなメッセージ性が強くサウンドも本格的なヒップホップ活動をSKY-HI名義で行っている日高光啓の事だ。政治的ーー特に政権批判的なーー発言がタブーとされる日本の芸能界においてそのようなスタンスで活動する事は応援したいが、音楽的には今一歩入れ込めないという人達が、ある種三浦を日高の代替として見ていたのではないか。あるいは、私はLDHグループのユニットのダンスのレベルは非常に高いと見ているのだが、USのトレンドを追っている人の多くにとって楽曲やサウンドは物足りなく映るだろう。そこに同じように高いダンス技術を持つ三浦がEDM以降のUSの音をきっちりキャッチした本作を出した事で、LDHグループが背負っている幾つかのものを三浦にも背負わせてはいないか。本作への熱狂的な評価もどこかそれら他者の代替として背負わせたものに立脚しているのではと思えてしまう。

絶賛論に乗り切れない故に穿った見方になってしまっている面はあるとは思う。しかし、本稿で述べた事は本作を絶賛する熱心な音楽リスナーに一度立ち止まって考えて頂く価値のある事柄だとも思う。


Rosalia - El Mar Querer

所謂”ワールドミュージック”という言葉は、その概念を紹介した存在の一人と言えるDavid Byrneもが批判するように、英語圏以外の音楽を乱雑に括ってしまう不遜な言葉であると私も考えている。故に、このRosaliaの音楽を語るには”ワールドミュージックのボキャブラリ”では無く”フラメンコのボキャブラリ”が必要な筈だ。その点、私もアフリカや中南米にアジアといった地域の伝統的な音楽はそれなりに聴いてきたが、スペインのそれは殆ど通っていないので今の私に評価や順位付けは難しく、この補遺にて語る事にした。

”ワールドミュージック”という概念で考える事の危険性が現れた好例を一つ紹介しよう。アメリカにNPRという大手ラジオ局がある。インディロック等が好きな向きにはチェックしている方も多いのではないか。そのNPRは毎年SXSWの出演者から注目アクトをピックアップし直近のスタジオ音源を集めたコンピをフリーDLでリリースしているのだが、2016年のそれに「和楽器バンド」を選んでいる。三浦大知『球体』にて書いたように、私にはナショナリスト的側面もあると自覚しているけれども、なればこそ正直この和楽器バンドは許し難い存在だ。楽器こそ名目通りに純邦楽器を使用しているが、音楽形式へのリスペクトは全く無くただ単に違う音色でラウドロックやアニソンを演奏するだけで、西洋とアフリカが基調となって作られたポップミュージックに対してアジアという風土で紡がれてきた音楽との差異に対する批評精神も見えなければリスペクトも感じられない。恐らくインディロックやオーガニックなソウルといった音楽を熱心に聴く日本のリスナーの大半もあまり良い印象を抱かぬと思うが、それらのリスナーに信頼のブランドの一つであろうNPRが、このようなイージーな音楽を選んでしまっているのだ。これこそ”ワールドミュージック”として英語圏以外の音楽を雑に括ってしまう事からの問題にほかならない。

フラメンコのボキャブラリを持たない私には、スペインの伝統を重んじる方の視点は殆どわからない。一応英語と日本語でスペインの音楽にも少なからぬボキャブラリを持つ方のレビューは幾つか拝読したが、やはり最後は自分の耳で判断せねばなるまい。ジャッジを下せるのはフラメンコのボキャブラリをより積んでからであろう。

しかし、英語圏での発展を中心としたエレクトロニックミュージックとしての部分は間違いなく面白い。「Que No Salga La Luna - Cap.2: Boda」のキックの入り方に見えるJames Blake以降の感覚を鋭く切り取った音像設計の特異さ、「De Aqui No Sales - Cap.4: Disputa」におけるヴォーカルチョップもリズムパートの一部を為すエディットの巧みさ、随所に垣間見える作為的なバックグラウンドノイズの音響的効果。これらサウンドに施されたトリックの数々は実に見事で舌を巻く。

だがそれらとフラメンコのリズムの合わせ方や、エレクトロニクスの割合が少ないストリングスをバックに歌うようなトラックに関しては、備忘録として現時点でも魅力的に感じるとは書き残しておきたいが、やはり評価を下すにはボキャブラリが足りない。しかし、仮にフラメンコのボキャブラリを積んだ事で本作にある種冒涜的な要素が見えてきたとしても、このアルバムがあったからこそフラメンコを掘ろうと思えたのだから、これをワールドワイドないし日本国内で高い評価を下すジャッジをした方々には最大限の敬意を表したい。

Joji - Ballads 1

”日系人”?”日本人”?が調べると情報が分かれているのだけど、名の知れた存在に対してのこういう情報には結構シビアな英語版WikipediaがNationalityをJapaneseとしているのだから国籍は日本なのだろう。音楽を語る上でそんな事どうでも良いというのは正論なのだが、こと今USで活躍するアジア人、特に彼が所属する88Rising周りのアーティストに関しては少しその辺りも重要になってくると考える。

88Risingや個々のアーティストを語る前にまずご存知の通り英語圏に関してアジア人エンターテイナーのプレゼンスは確立されていない事を留意すべきだろう。そして、時に日本では無邪気かつ大雑把なトーンでレベル・ミュージックの象徴と言われるPublic Enemyが、実は同じアフロアメリカンの左派寄りな層からさえも賛否の分かれるブラックパンサー党にシンパシーを示しており、無論PEのそのスタンスも同時に賛否の分かれているという事もご留意頂きたい。何が言いたいかというと、今や時に”リベラル”な”レベル(Rebel)”の象徴ともされるコンシャスなヒップホップは、その最初期の重要な存在として同じマイノリティからも時に反発を受ける”リベラル”とは縁遠い過激で逆転したレイシズム的でもある思想を抱えて育ってきたという事だ。

ここで考えるべき事は2つ。①そもそもそのような思想が無ければヒップホップは、アフロアメリカンの音楽は今の地位を確立出来なかったのだろうか?それともPEのような存在は大局的なヒップホップ史からすると些末に過ぎないのか? ②アジア人エンターテイナーの英語圏におけるプレゼンスを確立するためにも人種や国籍といった御旗のもとに連帯を募るある種ナショナリズムやレイシズムに繋がり得る道を経由せねばならぬのか?

ドーンと大きな言葉を用いての問題提起をしておいてなんだが、ここでその答えを考えるつもりは無い。それはーーかつての”British Invasion”に傚えばーー”Asian Invasion"とも言えるこの流れをもう少し経過観察してからで良いかなと思っている。しかし、それを観察する上で88Risingが重要なのはもちろん、その中でも特にこのJojiが重要になると考える。

本作にシンプルな音楽的評価を下すなら、個人的には確実にポジティブに捉えられる作品だ。特に大ヒットしたドリーミーな「Slow Dancing In The Dark」は2018年のポップミュージック全体においてもハイライトといえよう。しかし、90年代以前に同じコード進行の上で歌われるのであればシンガーのスキルが非常に試されるものになったであろうこのトラックに乗るJojiの歌は、ヴォーカルエフェクトの流行やラップとも歌ともつかない節回しが定着して以降なればこそのものであって、端的に言えば音だけでライヴパフォーマーとしての実力を感じさせるものではない。

そして、半数以上の曲をセルフプロデュースしているものの、前述の「Slow Dancing In The Dark」はSolangeからMGMTまでを手掛けるPatrick Wimberlyによるもので、他にもClams CasinoとThundercatを組ませた「Can’t Get Over You」、ShlohmoとD33Jによるヘヴィーなギターが印象的な「Why Am I Still In LA」と、特に耳を惹く特徴の強い曲はどれも本人の手によるものではない。言ってしまえば本作を魅力的な作品にしている要素がJojiという個の力に依る物なのか実に微妙なのだ。

無論、これまでのポップス史において若さやルックスや表層的な過激さを以てハイプ的に持ち上げられた存在が業界に出てから素晴らしい成長を遂げた例が数多くあるように、Jojiという個の能力がこれから向上していく事も十二分にあり得る。しかし、同じ88Risingのスキルフルかつ”今っぽい”歌い回しを見事に射抜いているNIKIや、母国語を貫く事で必然的にUSシーンにおいての圧倒的な差別化が出来ているHigher Brothersといった面々と比べると、やはり現時点においてはJojiという個の強さはあまり感じられない。誰の存在が最も大きいにせよ結果として作品自体が素晴らしい事は繰り返したいが、率直に言えばここまでヒットしたのはかつてコメディYouTuberとして築いたネームバリューがあってこそだろう。MVにおいてもコミカルな要素を排しているこのJoji名義での活動がどれだけ注目度や評価を維持していけるか、それを観察することが88Risingのマネジメント能力の試金石であり、ひいては世界におけるアジア人エンターテイナーへの注目度の秤になるのではないか。

中村佳穂 - AINOU

ディスコグラフィをきちんと調べるとKan Sanoとの共演7インチを出してたりもして、ひょっとしたらそれは頭の片隅程度には入っていたかもしれない。しかし正直なところを言えばノーマークで、本作もTwitterで話題になって初めて知った。そのTwitter上で見たマニアックな音楽リスナー達の反応も多くがそのような感じで、今作で大きく認知度を広めた存在と言って良い。

そのマニアックなリスナーの心を一気に掴んだのに頭を飾る「You may they」の存在は大きいはずだ。キャッチーなシンセリフに、地のヴォーカルもそれなり以上のスキルを持つだろう事は一瞬で伺えしれつつもオートチューン(実際には似た効果のプラグインは幾つもあるので、正確を期すならピッチ補正プラグインと呼ぶべきだが便宜上この言葉を使う)をエフェクティブだが繊細にかけられたヴォーカルが乗る。そして、もしやFuture Bass的に展開するのか?とも思わせる手数の多いエレクトロニックなリズムが鮮烈な印象を刻みつけ、しかしそのリズムがふっと引いたら再びあくまでビートよりも歌を軸に楽曲が展開する。ただでさえ本邦の歌モノとしては短い2分半強の尺のその半分程度で既に莫大な情報量が込められていて、また2018年には日本のバンドミュージックリスナーの間においても「日本の音楽と英語圏の音楽との低域の差」が非常に話題になったが、その話題への回答とでも言うように超低域をサウンドの観点のみならずアレンジ=編曲として考える際にも不可分なほど効果的に収録したその音像、これらは中村佳穂という存在を知らなかったリスナーにその名前を刻みつけるのに重要だっただろう。

しかし、そのインパクトから一呼吸おいて聴き直すと、ソングライターやヴォーカリストとしての側面だけを切り出しても十二分に個性的な中村佳穂の音楽を飾るにおいて、わかりやすくエレクトロニックかつ派手なサウンドは少々装飾過多だったのでは?とも思えてしまった。MVも切られた「きっとね!」のボディのコード進行と歌メロはーー本作で掴んだファン層を思えばこの形容に抵抗のある人もいるかも知れないーーDREAMS COME TRUE的でさえある、Earth, Wind & FireやThe Emotionsを土台とした…要するにMaurice White歌謡の系譜で、J-POPにおいてある種使い古されてるとも言えるボキャブラリーで組み立てられており、バックトラックも”シンプルな”と呼ぶにはポストプロダクションが重要過ぎるがしかしベーシックとしては所謂バンドサウンド的である。しかしそれを凡百のJ-POPと違えているのは、気まぐれなスキャットの方にリズムを合わせたかのような伸び縮みする拍節感覚や、後半にそれが垣間見える矢野顕子やBjorkの系譜に位置するヴィブラート等を過剰に使った情感過多な歌唱表現で、この曲のようなアプローチでも十分過ぎるほどその個性は伝わるのだ。

故に、何度も聴くうち前述の「You may they」や「Fool For 日記」の冒頭のゼロ年代エレクトロニカ的なグリッチーなギターの加工等のエレクトロニックなアディショナルプロダクションは、元も子もない言い方をしてしまえば、「そこまでする必要あります?」とも思えてきてしまうのである。今作において理想的なバランスを保っているのは、その「きっとね!」や「そのいのち」といったような、現代的な音楽のプロダクションにあまり知識がない人が聴いたら1発録りと思われてしまうかもしれないような生演奏を基調としたトラックではないか。

ただ、邦楽界全体における前述の低域の問題等も思えば、ここでのエレクトロニックなアプローチへのチャレンジを無駄とは言いたくない気持ちもある。そういう意味ではintroという名のインタールードを挟んでの後半の入り口となる「SHE’S GONE」から「get back」の流れはエレクトロニックなアプローチと必ずしも相性の悪いシンガーでは無いことも示していて、その流れ辺りをとっかかりにあくまでソングライターとしてヴォーカリストとしての個性を中心にバランスを取り直せば次作はさらなる飛躍も望めるはずだ。日本の音楽史上のランドマークたりえる傑作をモノにできる才能を持っている事は間違いない。

XXXTentacion - ?

十二分にその才能を感じさせるトラックもあるのだが、正直テンタシオンはベテランからの「Emo-Rap界隈の奴らはあんなのラップじゃねえ」とでも言うような批判を気にしてしまったのではなかろうか。1stで聴けた最良の魅力とも言える歌とラップ、あるいはそのどちらでも無いようにも聴こえるヴォーカリゼーションのバランスが少し崩れているようなトラックも目立った。

アルバムが中盤に差し掛かる所での新進プロデューサーDell Sodaによる、トラップ的な体裁を取りつつ完全にEinsturzende Neubautenのようなインダストリアルノイズ/ロックの文脈で聴ける「Floor 555」におけるまさしくロック的なエモーションを撒き散らす叫びや、本作におけるテンタシオンの右腕的なJohn Cunninghamのオーバーダブによるほぼひとりバンド編成(ドラムのみRobert Soukiasyan)でロックに振り切ったNUMBと、1stの時点からあったKurt Cobainと比較されるような要素をより強めた楽曲は非常に魅力的だ。

しかし、一気に翻ってブーンバップ的なジャジーヒップホップのトラックでJoey Bada$$と勝負した「Infinity (888)」は暴挙と言わざるを得まい。ラップスキルが評価されるジョーイと対等なラップを繰り広げる事でラップのスキルもあるんだぞという評価を高めたかったのだろうが、ジョーイ相手にライミングの妙よりも言葉数を詰め込むことで勝負しようとしたそのアプローチで既に負けている感があり、ある種の幼ささえ感じてしまう。

その後もBlink-182のTravis Barkerをドラムに招いた「Pain=Best Friend」や、トリプルギターのヘヴィーなミクスチャーロック「Schizophrenia」とロック的に振り切ったトラックがやはり素晴らしいクオリティを聴かせているのだが、一方でどう考えても浮いているチカーノラップというかCamila CabelloのHavanaのヒットに便乗した?(しかしもしレーベルやマネジメントの意向だとしたらこのタイトルにOKを出すだろうか?)サルサっぽいラテントラック「I don’t even speak spanish lol」やどうにも凡庸なMatt Oxとの「$$$」と、全体として出来の起伏が激し過ぎるアルバムになってしまっている。

そもそも尺もやはり1stの20分前後の方が自身の好みに近いのではなかろうか。その点も商業的にはむしろ短い尺の作品をアルバムないし何らかのプロジェクトとして出す事に追い風が吹いてるような状況だったので、自分自身がベテランに認められるフォーマットの作品を作りたいという思いがあった、それが裏目に出てしまったようにも思う。だが、しかし、その声の持つポップネス、ある種のカリスマ性はやはりカート・コベインとの比較にも頷けるほどのものがあり、出来の良いロック的なトラックでのパフォーマンスには人を惹き付ける力を確実に感じる。このまま音楽活動を続けてラッパーとしての自分とロックシンガーとしての自分のベストなバランスを見つけることが出来ればロック/ヒップホップ両ジャンル史に残るマスターピースを作れていたんじゃないかと、やはり早逝が惜しまれてならない。

結構ギリギリでやってます。もしもっとこいつの文章が読みたいぞ、と思って頂けるなら是非ともサポートを…!評文/選曲・選盤等のお仕事依頼もお待ちしてます!