大人になって分かった(ような)先生の教え
マレーシアで3年過ごしたあと、特に信じるものではなかったのですが、縁あって日本のプロテスタント系の高校に通ってました。
(お土産で買ってきたヒンズー教のお線香を、祖母の家のお仏壇で焚いたら香りがもう強くて。ご先祖様もびっくりしたかも?)
全校生徒が毎朝、大きなパイプオルガンのある礼拝堂に集って聖書を読み、賛美歌を歌ってから授業開始、そんな日々。
学校の先生や近くの教会の司祭の方が登壇して聖書の一節を読み、そこから現代の我々への学びを得るという、貴重な時間だったと思います。
私は他の生徒らと同じように、特徴的な司祭様の真似をしたり、賛美歌をまじめに歌わなかったり、パイプオルガン大きなぁとか寝惚けながら上の空だったり、クリスマス礼拝で来てくれる女子高のハンドベルの演奏に春を感じたりと、まぁ不真面目な楽しい男子校生活でした。
そんな私でしたが、普通校にはない「キリスト教」の授業はとても思い出深いものがあります。
キリスト教というより仏教のほうが似合いそうな、無口・無表情で背筋のピシッとした先生が入ってくると、クラスに緊張感が走ります。
まるで獲物を狙うカマキリのように、黒ぶち眼鏡を光らせて我々を鋭い視線で見まわします。とても長く感じられる沈黙です。
「・・・道場」
遠くまで響く静かな声が、沈黙を破って生徒の大歓声を巻き起こす、そんな事がしばしばありました。授業が体育に切り替わるのって嬉しいですよね。クラスを出て道場にソロゾロわくわくしながら向かった思い出があります。
先生は、クラスでキリスト教の授業をするか、道場で柔道の稽古をするか、我々生徒の状況を見て決めているようでしたが基準はまったくの不明。
本職の?授業を始めるときは明らかに我々のモチベーション下がりました(笑)・・・(あれ、待てよ、学問としてのキリスト教は教えて頂いた記憶がない…😅)
そんな先生、キリスト教の授業で強く印象に残った言葉があります。それは「どれでもいいから、遠藤周作を一冊読みなさい」でした。
さっそく手に取ったのは「深い河」。
切なく温かく、生々しい人の思いや、初めて訪れる感情に、本を読むって新鮮だなぁと感じられた一冊でした。キリスト教の先生が進める作家さんなんですが、キリスト教というよりはもっと広義な宗教観、大局的な視点の大事さを教えたかったのかなぁと、今になって思うところです。
次に「沈黙」
江戸時代初期が舞台の、隠れキリシタンと司祭の交流。
迫害を受けながらも日本に潜伏して布教を続けた司祭達は、唯一神と八百万の神という決定的な宗教観の違いを目の当たりにします。
(この時期は南部藩でもキリシタンの迫害が厳しかった時代。)
物語は「信仰とは何か?」という深いテーマを投げかけます。
神はなぜ沈黙を貫くのか?アクション映画のような、ピンチの時に救ってくれるヒーローなんて出てきません。
なんで?なんで?疑問符が次々に湧き出てクライマックスに向かっていく物語は、最初は辛い印象を私に与えました。
ところが、私自身が年を重ねて読むに連れ、その印象は変わりました。『思いは変わらない』んだな、ということに気がついた頃でした。
身の回りのものも、数多(あまた)の宗教も全部同じ。もっと良くなりたい、もっと楽に生きたい。その『思い』を形にしたものに過ぎない。(宗教観はもう少し複雑ですが、源流は同じとします)
キリシタンへの迫害を深刻化させてしまったのは、ひとつに『物には魂が宿る』日本人の美しい宗教観も関連しています。
(舞台となった長崎のゆかりの地に、いつか訪れて往年の思いを感じてみたい)
小説『沈黙』の真に意味するところは、
踏み絵もそう。踏んで良い。
思いは変わらない。
棄教もそう、棄てて良い。
思いは変わらない。
遠藤周作さんは伝えたかった大切なことは、次の3つのように感じるんです。
①目にしたり手にしたりする物に、どんな『思い』があるのかなと心を寄せること。
②誰一人として『思い』を寄せられない者はいないということ。
③その『思い』をお互いに信じることが大切だということ。
だから、宗教なんて関係ないんだと。(そらあ、問題作って言われますよね、遠藤周作さん)
これまで仕事なんかで十数カ国を訪問したなかでも、宗教はじめ人種(欧米の中のアジア人ってねって感じの)の問答や差別もまったく無く、反日運動なんかで国際的には「行きたくないなぁ」って情勢の中でも、よく来たねと温かいホスピタリティで迎えてくれました。
私がラッキーなだけかも知れません。そんな経験を通して宗教や人種って関係ないんだなと肌感覚で思ってました。冗談も通じるし、男女のいざこざなんて国際標準なんだね、なんて盛り上がったり。
私自身が経験を通して思っていたことと、先生の教えがきっかけで理解したつもりでいた事の真の意味を理解したことがリンクして、あぁ、きっとそういうことなんだなぁ、と理解したところです。
もっといろいろな経験を積めば、その理解も変わるかも知れません、今は、この感覚を肯定しておこうと思ってます。
頭では分かったように理解はしても、どーんっと落ちる時は落ちます(汗)
何に頼らざるとも、この考え方で色々と応用がきいています。
心の棚卸しをして、また起き上がる。先生の一言が今も心に生きている。先生ってすごい。
当時は先生にありがとうだなんて、過去を振り返ることなんて無かったな、若さか?これが。今でも遅くないですかね先生、ありがとうございました。
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