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病気とつきあう (2)なぜ脳出血に?どうして自分なの?

3年半前の冬、脳出血に見舞われ半年間入院、退院して丸3年経った。そこから始まった心身の変化がいまの自分の生活や行動、思考に大きな影響を及ぼしている。3年ひと区切りで、病を得て何を感じ何を思ったか、何が変わったか、セルフドキュメントとしてときどき、少しずつ書いていくことにした。闘病記ではなく誰かの役にたつものではないので興味のある方は気軽に読んでほしい。

入院後の落ち込み


前回は発症時の心の揺れを書いた。入院後は毎朝目覚めると思うように動かない手足にがっかりし、「なんで自分はこんな体になっちゃったんだ?」と落ち込んでいた。自分には脳出血を起こすような基礎疾患がなかった。高血圧や糖尿病、肥満といったリスクファクターもなかった。運動不足はあったが毎日の通勤で一定の身体活動はできていると思っていた。基本ずっと健康だったので体調に対する過信があり、自分は病気にならないという根拠のない自信があった。高齢になったときの自分の姿を想像することもなかった。

検診サボりを後悔


そんなわけで職場の検診をサボりがちでこの年も受けていなかった。そんな油断まみれの中での脳出血は青天の霹靂だった。発症後高血圧を指摘され驚いた。前年まで全く正常でむしろ低めだったからだ。血圧はわりとゆっくりじわじわ上がってくると思っていたが、一定の年齢になると急に上がることを実体験を通して知ってしまった。検診を受けなかったことを後悔した。受けていれば脳出血を回避できたかはわからないが。

なぜ自分が脳出血になったかを考える


後悔を引きずっても結果が変わるわけではなく、気持ちの切り替えはそれほど難しくなかった。むしろ、運命論的になぜ基礎疾患なくリスクファクターも少なく、発症時まだ50代の自分が脳出血になったのかということが気になった。答えがある問いではないが、入院中リハビリ以外に基本やることがなく閑でどうしてもつらつら考えてしまった。

「宿業(しゅくごう)のなかにいまの自分がある」に納得


自分の中で一定の結論が出たのは半年後だった。ヒントは退院後にたまたまテレビでみた宗教の番組だった。たしかNHK Eテレで放映された浄土真宗の教えをわかりやすく解説するものだった。ひと言でいうと、「その人間の過去の行為の積み重なり(仏教用語で「宿業」というそうだ)の中にいまの自分がある」ということだった。そう考えると自分の半生でのさまざまな場面を次々思い出した。友人や近しい人たち・世間に対する不義理、不誠実、不道徳に加え親不孝、仕事や人付き合いでのいい加減さ、今回の後悔のもとになった根拠のない楽観・・・自分が悪かったことほどよく覚えている。
こういった事柄が積もり積もってばちが当たったと考えた。自業自得、因果応報、身から出た錆、天罰で結局は自己責任ということだ。こう考えると納得がいき、気持ちが楽になった。諦めもついたし、覚悟もできた。誰のせいでもない、あなた自身のせいなんだよとはっきり言われたことがむしろよかったのだ。


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