何気ない日々の中で

昨日はオナニーを3回した。どちらかといえば多いほうだ。
なぜだか自慰行為をしたあとはとても寂しい気持ちになる。
あの気持ちは何なんだろうか。
その気持ちは現実の世界とどうつなげていけるのだろうか。

ネットの海の中で幾万もの人が、誰にも読まれない文章を綴る。
みんな同じことを繰り返して生きているのに、違うことがしたいと叫び続けている。
それが間違っているとか、正しいとかそういうのはあんまし関係ない。
関係ないけど、遠ざけられない。
ジレンマの渦に飲み込まれて、僕たちは昨日と今日を繰り返す。

noteに何かを投稿しようと思い立ったのは、2021年3月5日(金)の午前9時11分の時だった。そこから意識も朦朧としたまま、twitterのアカウント経由でnoteに登録し、気の向くままに文章を書いた。ただ書いた。
これがいつか本になるのかもしれない。
そんな夢空想の類を考えるだけでとても楽しかった。誰にも読まれないんだとしても自分の考えていることを、自分の基準から照らして正しいと思える言葉で正確に表現できることは、とても楽しい。

書いていく中で一つ気づいたことがある。
僕は文章を書くのが好きだ。そしてnoteに投稿している人はみんな文章を書くのが好きな人なんだ。
だからすごく居心地がいい。誰もがクリエイターで表現者で何かを差し出している。なにかと引き換えに。
文を読むのが嫌だって人もいた。それはひどく悲しいことだと僕は思うのだけれど、その人にとっては文は人生には必要ないのかもしれない。
それはいいことかもしれないけど、やはりとても寂しく感じる。

何が正しくて、何が間違っているかなんて考えるだけ無駄だと思う。
現実の世界は日々そんな矮小なフレームワークでは到底図ることのできないほど荒みきっているし、狭まっている。
軟弱な視野を強化することでしか、自分とは違う価値観を認めることしかできない。視野を広げるなんて嘘っぱちだ。コギトエルゴスムなのだから。

ここまで勢いで書きなぐってきたけど、思い立ったら意外に書けるものだ。何のまとまりももっているわけではない。ひどくつまらない単調な文だ。
それでもこの文章は僕という人間の総体の一部を間違いなく表出している。
僕が生み出した尊く、そして価値のない文章だ。

この文章は僕のために死んでくれることを拒みはしない。

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