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「適当」

「適当」という言葉に、


・だらしない

・雑

・本気を出さない


などなど、

悪いイメージを抱く人が多いかもしれない。





辞書をひいてみるとわかる通り、

本当は悪い意味と良い意味をどちらも兼ね備えた言葉だ。


さて、ここまでの前述を踏まえて、


ぼくはちいさい頃から、

良い「適当人間」になりたいと思ってまし『た』。


出逢い


触れ


襲い掛かり


ふっと


または何度も続く





そんな物事に対して、


「適する」ように


「当てはまる」ように


そんな生き方をすることが


「素晴らしい人間」


というものなんじゃないかと思ってい『た』。




たぶんこれは、



間違えるのが怖い


嫌われるのが怖い


否定されるのが怖い



という思いから形成されたのだと思う。



たぶん

そういった思いを抱き、

そういった目標を持ってしまったのは、


人を信じられなかったからだと思う。





歳を重ねて

信じられる人が増えてきた




信じられる人が増えると

「信じられる人を増やしたい」と思った





そこから「適当」に使う力を少しずつ意識しなくなった。




「適当」を達成すると、



周りの人間はそれを「当たり前」にする。




そしたら「適当」がもっとすごいものになって、



きっとどっかで疲れちゃう




少し話はずれるけど、


「適当」に近い言葉で




「適合」という言葉がある。




最近では



「社会不適合者」


という言葉で使われることが多いなと思う



「社会不適合者」を「異端」として扱う人が多い気がする。




でも「社会適合者」ってどういう人って尋ねると正解を答えられる人なんていないと思う。




たぶん

正解なんてないから




もし

社会適合者と社会不適合者の2種類で語るなら





全員が社会不適合者だ。





そうぼくは思う。





人それぞれ違う






同じ人間はいない




でも

社会を形成するため

社会に適合するため

社会に「適当」であるために





力を合わせたり


至らない部分を補い合う





社会適合者がいるわけじゃない






そう思った時に、


1人で「適当」を目指すのはやめた。




誰かと「適当」を目指すために




前に書いた

「優しい人間」になろうと思った。



「信じられる人を増やす」ために



「優しい人間」になろうと思った。





今ぼくは

定職に就かず、

夢を見てる、

どうしようもない人間に見える人が社会の大半だと思う。





でもそれでも「適当」な人間になるために


目標を変えました。



そんな自分語りでした。



長々とすみません。




今まで書いたnoteを見返した時、



自分が「えらそうにしてる人間」に見えたから




そういうわけではないですと言いたくて。





書きたいことを書く


書きたい時に書く



その想いではじめたことだから



自分の立ち位置はしっかり確認したかったんです。


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