『生きてるだけで、疲労困憊』を読んで

今回、私たちのグループで読んだ本は『生きてるだけで、疲労困憊』です。

kogawaさんが言っていたように、この手の本は読まないので結構新鮮でした。

本を読みながら思ったことを載せていこうと思います。

「無いなりに工夫する」経験は、今日の社会生活にも活きている。

工夫という行為自体が基本的には必要にかられないとしないので、無いという状況に置かれないと経験できないものだなと思った。学生という身分
なのもあって、そこまでお金がないので、あるもので自分の求めているモノに改造しようといろいろ調べて知識がついたのを思い出した。

喋れれば、金があれば、親の愛情があれば、運動神経が善ければ、計算が得意であれば。無数のタラレバを思い、素敵な別世界が存在することに胸を高鳴らせていた。しかしインターネットでわかったのは、この世界には
どこまでも人間がいるだけである、という事実だった。

自分にないものを人は欲しがる。それさえあれば、こんな目には合わなかったのにであったり、もっと幸せだったのにと言う。しかし、それを手にした人間は、それをまだ手にしていない人間を弱者として非難する。成金タイプの人間を見ればよくわかる。結局、手に入れたとしても、その呪縛からは逃れられない。ないものねだりで何かを得たものは、ずっとないものねだりをするしかない。

善意とは、無から湧き出て万人に公平に注がれるエネルギーではない。「可哀想」「可愛い」「カッコイイ」等の魅力を感じたときに発生する有限な感情反応に過ぎず、魅力に乏しい者、可哀想でも可愛くもカッコよくもない者は善意から排斥されるのではないか?

魅力と聞くとイイものという印象を抱く人が、そういった言葉と並列で「可哀想」という言葉があるのが非常にいいなと思った。教育の中で善意でというのはよくある話だと思う。善意でどうこうされる対象は近年どんどん多くなっている。なぜか。それは人それぞれ発達の早い遅いがあるため、全員がそういったものの対象だとされるようになったからだ。この本で書かれていた善意の恐ろしさ(私たちよりも善意を吸い寄せる対象が現れれば、簡単に覆るのではないかという恐ろしさ)とは違うが、今のこの状況は、善意でされているということが分かりづらくなってしまったという恐ろしさがある。

「理解できないまま進んでいく授業」に私が全く対応できていなかったというのが大きい。つまずいたところで止まり、理解できるまでやる」という方法が、私には合っていたのだ。

授業はコマ数とやらないといけない範囲があるため、理解しっかりさせて進むことは非常に難しい。自分が実習で授業するときも理解をさせるために、非常に繰り返し教えたのを思い出した。この本の筆者は小学校の内容から復習したとあるが、一般的にこのようなことができる人はいないだろう。プライドや周りとの比較で無理やりやらせない限り難しいと思う。自分のこれからの参考として扱うには、そこまで戻らないにしても無力感を克服させるために簡単な復習をところどころ取り入れてみるのがちょうどいいと思った。

「私服でお越しください」にまんまと引っかかる

はい。僕もそうでした。しっかりと、私服で採用試験を受けてきました。なぜみんなスーツなのか理解ができなくてジェイラボの人に聞いて、たしかにとなったのを思い出す。ぼくもやはりそちら側の人間なのかもしれない。まあ、どうでも良い。

完成形が分からないと一つのミスが命取りに

授業を例にすると、完成形とはその単元をどのように教えていくかというスケジュールを指すと思う。そのスケジュールがあるから、一つの授業で、理解に重点を置きすぎて内容にあまり入れなかった場合でも修正ができるのだ。完成形がなければ、修正の度合いも何もかもが未知数になってしまうので、命取りになってしまう。と言いても、これを成立させるためには、その修正ができるほどの知識があるというのが必要だ。授業で言うならその科目の知識がそれに該当するだろう。

物事を始めるときは、質より量をこなす方が効率がいいからだ。

量をこなすことで、質が上がるだけでなく、自分のことも分かっていくので、人から聞く効率ではなく、自分になった効率へとなっていく。自分もそうだったが、効率中毒者は非常に多いので、伝えていきたいと思った。

助けを求めれば、助けてくれる「普通の人」はたくさんいる。

自分から助けてくるような人間は「善意」をもって近づいてくるが、自分から助けを求めるとそういう「善意」とは関係なしになるので、求めることの大切さを感じた。



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