嘘つき男の最後の真実

嘘つき男の最後の真実
矢持 奎
夜の大阪の町は、むせ返るような熱気に包まれていた。俺は汗ばむ手で、肩からずり落ちそうになる旅行鞄を戻した。
「こう蒸し暑いと嫌になるな、長谷川君。東京はもっと暑いのかね」
「どうでしょう……予報では、雨は降らないと」
 隣で鞄を引いている一つ下の後輩、長谷川君はその端正な顔に苦笑いを浮かべた。
「しかしこの気温だ、双葉の奴茹蛸になってるんじゃないかね」
「双葉先輩は蛸と言うより」
「子豚に近い」
 俺は勝手に言葉を継ぎたす。「鞠みたいな体型だし」
「モリタ先輩、ちょっと酷くないですか」
 長谷川の軽い非難の視線を感じながら俺は言いつのる。
「いいじゃないか、かつての親友なんだし。あ、でも会った時にはこのことは言うなよ」
 八月、夏休みももう半分を過ぎたあたり、俺と長谷川は去年転校した友人、双葉行夫に会いに東京まで旅行することになった。大阪から夜行バスに揺られて九時間あまりの旅だ。
「長谷川君、俺の荷物持ってくれ」
「またそんなことを言う。先輩は無茶ぶりが過ぎますよ」
「俺は高校一年、君は中学三年。つまりどういうことか、わかるね?」
長谷川は呆れ顔で、
「持ってもいいですけど、バスすぐそこですよ」
 俺たちは暑い外気から、冷房が効いている車内へと足を踏み入れた。俺はふう、と息をついた。座席に座り、枕や毛布を出す。他の乗客がいることもあり、しばらく俺たちは会話をやめた。
 ぷしゅう。と、気の抜ける音がしてバスのドアが閉まる。車体が揺れ始めるとすぐに電気が消された。暗幕を下したような闇の隙間に、わずかに都市高速のオレンジの光が漏れている。
「おやすみ」
「……はい」
早いもので隣の長谷川の寝る体制になっていた。俺も寝よう。そう思って瞼を閉じた時に電光表示の「十一時三十二分」の数列が見えた。

双葉とまともに喋ったのは、中学一年の文化祭の時だった。俺が自分のクラブの後片付けをしていると、ふいに声をかけられた。
「モリタ、手伝うぜ」
 当時の俺は新入生の中では随分と名を知られていて、俺の知らない人が一方的に俺を知っている、ということがままにあった。双葉もそうやって出来た知り合いの一人だったので、俺は彼の名前を知らなかった。この小太りの男は誰だろう? 俺がいぶかしげな顔をしていると、
「うっわー名前覚えてくれてないなんてひどいなー! おいらは双葉行夫。双葉って呼んで」
「ああ、卓球部の連中と一緒にいた」
 俺は、前に卓球部に話しかけられた時にいた小太りのハイテンション男の顔が、目の前の小太りハイテンション男と一致していることに初めて気がついた。たしかやたら、「アンビリーバボー!」って連呼しながら跳ねてた人だったはずだ。
「そうそう!」
 と、陽気に言い放ったあと、彼はやや暗い顔になった。
 「……まあ、卓球部もやめるし、この学校もやめるかもしれないんだけど」
「えっ?」
俺は俄然興味を引かれて、彼から話を聞くことにした。
彼によると、自分はなんとかこの学校に入ったものの、親が転勤するかもしれないとのことで、一年を待たずに転校するかもしれないらしい。すでに部活は退部しているとのこと。
「まあ、どうなるかはわからないんだけど」
 彼はその容姿に似合わない暗い声でそう締めくくった。その後のことは、私はあまり覚えていないのだが、何かしらの言葉で慰めたことは覚えている。
 その後、俺たちは随分と仲良くなった。クラスは違ったが、大体いつもいっしょに登下校する仲になった。
 二年を過ぎても双葉は元気に学校に来ていた。どうやら転校はしなくて済んだようだった。俺もそのことは詳しくは聞かなかった。
 双葉はとにかく面白い奴だった。
 いつも俺たちは帰りに阪急電車を利用しているのだが、双葉はいつも売店でお菓子を買っていた。うまそうにポテチをバリバリムシャムシャと食っている彼を見ていると、俺は一つの言葉を言いたくなる。
「お前……」
「次にお前は『太るぞ』とおいらに言うッ!」
「太るぞ……ハッ!?」
「うっせーお前の言うことなんてお見通しだよタコ! 好きな時に食って好きな時に寝るのがおいらの人生哲学だ!」
 双葉はバーン! とでも効果音がつきそうな動作で腕を広げて一回転、ポーズを決めた。長谷川君が言う。
「先輩となりの人に腕食い込んでいますよ」
「あっすいません」
 すかさず俺はセリフを重ねる。
「中一の長谷川君に注意されてどーすんだよお前。終わってんなー」
「大丈夫モリタよりは終わってない。それより聞いてよ。こないだ電車のなかで漫画読んでたらさ、乗ってくる人にッドーン! ってぶつかったのよ。そしたらその人どうみてもやくざって感じの人でさ、すっげー睨まれて俺ヤベーッ! て思ったらさ」
 彼は「ヤベーッ」といった雰囲気の表情も作った。
「そいつに車外につき飛ばされたんだよね。ドーンって。でも俺丸かったからこけてもけがしなかった。やっぱデブは身を救うと思うねおいら」
彼は自慢げな顔で語り終えた。俺は言う。
「擬音が多い!」
「どうよおいらの話、臨場感でてるっしょ? あっ臨場感って言ったらさ、この間うちにオレオレ詐欺かかってきてさ」
「うわあ」と長谷川君が笑う。
「電話口で相手が言うのよ。『もしもし!俺だけど!』『ああ、行夫?』『そうそう行夫だよ俺!』ってさ、むっちゃ切羽づまった感じで言うのよ」
 双葉は一呼吸おいて続ける。
「おいらさ、こう言ってやったさ。『俺も行夫だよ!』『えっ』『えっ』でここでガシャンツーツーツー」
 俺は「あほな奴もいるもんだな」と返す。
 双葉はよくしゃべる奴だった。喋っていないときは漫画を読んでいるかゲームをしている時だけだった。彼は聞かれてもいないのに、暇さえあれば自分の体験談や周りのおもしろい人間の話を面白おかしく聞かせてくれるのだった。子供の時に自転車で飛んだ話、ゲームのスコアでパーフェクトを出した話、地元の友達が出会い系サイトで失敗した話、一人カラオケのアニソンで満点近くとった話……双葉はそんなことを擬音や体当たり演技を駆使しつつ喋るのだった。俺やみなはいつもその話を聞いて言うのだった
「お前はアホだなぁ」
と。
 実際双葉は成績優秀とはいえなかった。課題は大体遅れて提出するか出さないかだしテストもいつも赤点ぎりぎり、そのうえ先生からもいつも小言を食らっていたが、彼はどこを吹く風でそんな失敗も滑稽談にしてしまうのだった。
 それでも俺が双葉を悪い奴だとは思わなかった。あれは中学二年のキャンプの前、男子の班を決める日の時だった。
 俺たちはいつも集まっている少人数で固まっていたから早く決まったのだが、残りの男子がもめていた。それはとある一人の押し付け合いだったようで、その一人は友達があまりいない奴だった。
 彼そっちのけで話は進んでいた。彼はすべてをあきらめた顔で黙っていたが、横で見ていた俺はその状況にいらだっていた。俺の友だちの一人が言う。
「行くな。うちはうちなんだからほっとけよ。誰か何とかするんだから……」
「俺がやらなきゃ誰がやるんだ」
「モリタはそうやって自分が責任を負おうとするからいけないんだ」
 なお言い募る彼を尻目に立ち上がったのは俺と……もう一人の意外な人物だった。双葉だ。日頃はあんなに、「自分さえよければいい」と言っているのに、双葉の目はやや怒っているようにさえ見えた。俺と双葉はその余りの彼と組むために向かっていった。
 結局その日は決めずに終わったのだが、帰り際、双葉は心底気に入らないという顔をして、
「みんな糞だな。あんな風に仲間外れにする奴を俺は許せない」
 と吐き捨てた。俺は何も言わなかった。

 不意に車体の揺れが止まるのを俺は感じた。うっすらと目を開けて、時計の文字盤を確認する。横で長谷川がもぞもぞと動く。
「二時十分だ。パーキングについたぞ。ちょっと外の空気吸ってくる」
 長谷川は目をこすって、
「ああ……僕も行きます」
俺たちは車内から降りた。パーキングエリアも暗いままで、自販機の青白い明かりだけに、羽虫がたかってるのが見えた。遠くの町のあかりがぼんやりと光っているのを見ながら、俺は言う。
「なあ、俺はさっきまで双葉のことを思い出していたよ」
「はあ」
「長谷川君、お前は双葉って、どんな奴だと思う?」
「あんなに破天荒な人は早々にいないでしょう」
 長谷川君は肩をすくめる。俺は頷いた。
「ああ、あんな騒がしいやつには誰もかなわん」
「でも、あの人の話って……」
 長谷川は何か言いかけたが、やはり黙ってしまった。「いや、やっぱりいいです」
 俺は自分にいいきかせるように言う。
「でもまあ、大変な奴だったな、あいつは」
 バスの車内に戻って座席に座り、目を瞑る。しばらくすると、またバスは揺れ始めたのを感じた……。

 中学三年になってから、双葉の成績はさらに振るわなくなってきていた。
 朝、双葉はいつも電車の中で食パンを貪りながらなんとか課題を終わらせようとしていたが、全然終わる気配がない。高校への進学条件のテストも受かっていなかったし、レポートもさっぱりうまくいっていなかった。
 さらに悪いことに、クラスメイトともあまりうまくいってないようだった。もともとアウトサイダーだった俺たちだが、中のいい奴もクラスにあまりいない彼はさらに孤立していっているらしかった。そのせいか最近後輩や自分にべったりな彼に対し、俺は少し「鬱陶しいかも」と思っていた。
「食パンうめえ」
 彼は死んだ目でそういった。俺は、
「まったく旨そうにみえないんだか」
 と、返す。
 仕方ないだろう実際……うっ」
 彼がかがみこんで口を抑えたのは電車が梅田駅のホームに滑り込んだ時だった。
「おい、どうした」
「これから学校に行くことを考えたら気分悪くなってきた……まあ、学校では半分いじめられているようなものだから」
 こういう時に気の利いたセリフを言えない自分が憎らしい、と俺は強く思うのだった。
「あ、そうだ」と、双葉は思い出したように言った。
「俺、転校するかもしれん」
 俺はある意味こうなるとは予想していた。が、やはり言ってしまうのだった。
「冗談だろ」
 双葉は事もなげにいう。
「まあ、親父も単身赴任だし、仕方ねえ。おいらはこの学校合ってないし、だいたい嫌いだし、おいらいじめられてたようなもんだし……うっ」
 しゃがみこむ彼の背中を、俺は黙ってさすることしか出来なかった。
 結局、双葉は文化祭の直前に学校をやめた。俺たちは彼抜きの修学旅行に行き、朝の電車に一人で乗るようになった。
 高校に進学し、携帯電話を買ってもらってから、俺はまた双葉と連絡をとりあうようになった。双葉は今、いい進学校に行って猛勉強に励んでいるらしい。
『成績も上がったのは学校があってたからだろうな。ほら、相性悪かったからさそっちとは』
 と、電話越しに彼は言う。
『男子校なのがネックなんだけどな! ところでさ、こないだ……』

「モリタ~お前双葉に会いに行くんだってな~」
 六月の中ごろ、双葉に東京行きを誘われたあたりだろうか、梅田の駅のホームで、俺は緒方に声をかけられた。緒方は双葉と同じ卓球部にいたやつで、双葉がやめた後あたりに部活を変えた。それ以来自分たちのグループと仲良くしてくるのだが、俺は奴が嫌いだった。
「双葉、東京でどうなんだ?」
 緒方は半笑いで聞いてくる。
「知らん。成績は結構とれているらしいぞ」
「嘘だな」
 緒方はますます軽薄そうな笑いを浮かべて言い募る。
「まさか、あの双葉がねえ。絶対いじめられて不登校になってるっつーの」
 俺は黙って眉根を寄せて不快感を露わにするが、この軽薄な男には通じないようだ。
「てゆーかさあ、あいつ嘘ばっかついてたよな。モリタ気付いてただろ。あいつのくだんねー自慢話とか全部嘘に決まってるし、ウソばっかついて、いじめられて挙句の果てには逃げるし、あんな自業自得の豚――」
「うるせえ」
 俺は緒方の首を掴んだ。
 最初からそんなことぐらい、知っていたのだ。最初の転校も卓球部をやめて俺たちと仲良くなるための嘘。そんなにあいつにすごい友達もいなかった。オレオレ詐欺の話、あれも有名な2ちゃんねるのコピペだ。登下校のほら話も、本当は作り話のほうが多かったってことも、俺は、よく、知っている。偽りの破天荒。そうすることでしか、彼は人と関われなかった。
 それでも、俺や俺たちが、嘘だと言わなかったのは――言ってしまえば全部が終わってしまうからだ。嘘をつくことでしか役割を得られないのなら、騙されなければならない。誰かが肯定しなければ、誰かが受け入れなければ彼の居場所はなくなる。そして、誰かを受け入れないと得られない俺たちの居場所も。仲間外れは卑怯だと、俺は彼から聞いた。だから、誰も言わなかったのだ。それを、この男は。
「うるせえ。それがどうした」
 俺は言う。一語一語噛みしめながら。
「それが、どうしたって、いうんだ」

 ふと顔に明かるい日の光を感じて、俺は目を開けた。夏の朝特有の明るい光が、薄闇だったものに差し込んでいる
「おはようございます。七時半ですよ?」
長谷川君曰く。
「……おはようさん。となると、もう一二時間で着くな」
「先輩、荷物まとめて下さいよー。双葉さんがもう駅についたって」
「あいつアホみたいに早いな。まあ、平気で集合時間の二時間前から待ってたりする奴だからな」
 そういいながら、俺は転校する前の彼の言葉を思い出していた。
「俺はこの学校は嫌いだ」
 彼はそう言った。しかし、続けて言った。
「でも、お前らはきらいじゃない」
 バスは東京駅に入っていく。バスの車体から出た俺たちは、荷物を担いで、並んでじわじわと汗ばむ大都会に降り立つ。向こうの方に、鞠のような体型の男が、ぶんぶん手を振っているのが見えた。

あとがき

これは中3? 高1? の時に書いたものを2017年に手直ししたものです。手直しした記憶自体なくなってたのですが、大学の絵画部で作品の一部にした記憶があります。今思えば文体から構成からもっとがっつり手を入れてボリュームを膨らませられる。でもここで書きたかったことは今後も通底してる気がします。

文章など書きます。