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狂人はどうやって正気のフリをするか?

はじめに

記事タイトルの通りです。また思考の放流というやつですね。
トップ画像は「中古ドメインで販売される自殺対策サイト」です。クールジャパンだ。
狂人、という単語を使ってこそいますが、ちゃんと僕の人生に関するお話です。僕は狂人ですからね。ある程度の狂気を携えて生きている。
後で見返して、「なんてバカな生き様なんだろう」と思うために書いています。
こんな記事を書き始めたのは「障害者という存在に対して、合理性の下で計算した場合に社会はあまりにも無情だということ」という気づきからです。
適当に読んでください。



「わたし」は狂人であり、「あなた」は正常である

僕は幼いころから異常行動が目立つタイプでした。
いいですか、異常行動です。決して、「個性」なんかではありません異常行動です。
周りとの距離感を履き違えて変にリーダー的な立ち位置になろうとする、まあ今で言うところの「意識だけ高い系」というやつですね。
その足元にすら立ててないんですけど。
そう、いわゆる発達障害です。周りに馴染めないやつです。
特に僕は中等度のASD(自閉スペクトラム症)と軽度のADHD(注意・欠如多動症)の併発で、LD(学習障害)は回避していました。
ワークスペースが狭く、思考が散逸しやすく、そして対人関係というものが苦手。まして音の聞き分けができず、感覚が過敏。
典型的な発達障害ですね。

具体的に見ていくと、「アンパンマンが好きではない」というのが、幼年期のASDに顕著に見られる傾向です。
そう、僕はアンパンマンが好きではない。
ディズニーもキラキラしすぎて好きではない。

小見出し「『わたし』は狂人であり、『あなた』は正常である」ということの因縁は小学校のときからです。
周囲に馴染めずに「外に出ろ」というバカの一つ覚えに従順になって外へ出ていくと殴り倒される的になった小学校一年生。
リーダー気取りになって陰口の的になった小学校三年生。
多少持ち直して社会に出てみれば嘲笑の的にされた小学校五年生。
そしてそれを「自分の個性」「持ちネタ」として解釈してしまったがために、変な位置に収まってしまった。
中学校では案の定行き場を失ってインターネットに定住。しかもインターネットですら対人関係における距離感の測り方を間違えたせいで他人を著しく傷つけることが何度もありました。
挙句の果てには性犯罪に近いことにまで手を染めています。とんでもないクズ野郎だ。

まだ苦しむ心が残っていたのが幸いでした。数人の精神をなぶり殺しにしたところで、ようやく気付いたわけです。
わたしは異常で、彼らは正常。直さなければならないことが山積みだと。
彼ら彼女らには今でも出会うことがあればまず頭を下げて、いや土下座するべきだと思っています。決してアレらは許される行為ではなかった。
が、僕を叱って気付きを与えてくれたという点で感謝しなければならないし、謝罪もしなければならない。

補足ですが、近所の人は今でも僕の姿を見ると笑っています。統合失調症とかじゃなくて、本当に名前を呼んで笑ってきますからね、彼ら。


愚人号の旅路と、合理性に基づく社会

じゃあどうしたかと言えば、自分よりも大人な(自分が尊敬できる)人物に助けを求めることでした。これがおそらく、僕の運命を決定づけたと言っても過言ではない。
幸いにして中学時代の恩師であるN先生(仮称)に出会い、先生が僕の取っ散らかった思考を体系化して客観的に評価する役を買って出てくれたことで僕の人生は滅亡の一途を辿らずに済みました。
他方、僕は同級生や一般社会人と交流することで同種の人物を見出そうとしましたが、彼ら彼女らは口をそろえて「君の考えは複雑すぎる」「君は重すぎる」と言って見捨ててきたわけです。
当たり前だよね。そりゃそうだ。これを抱え込める人間はそうそういません。

N先生のように、障害者の人生を左右する「キーパーソン」が実在します。これは親でも、友人でも、なんでもあり得ます。
僕はN先生とO先生(小学校時代に最も助けられた先生、仮称)と母親がキーパーソンでした。
彼ら彼女らの献身が、僕を「正常な」人間たらしめるための一歩を踏み出させたわけです。これは無償の愛(アガペー)と言っても過言ではありません。

もしこれが、合理性に基づく損得勘定を基本とした現代社会そのものへの直面だとすれば、僕がN先生やO先生に出会うことはないわけです。
健常者の各位は自覚的であると思うし、障害者の各位は認識していることだと思いますが、基本的に自分がペイした分の利益が見込めない場合は容赦なく切り捨てるのが人間です。
「いやいや、友人なら」と言う方もいるでしょうが、そもそも学生時代を通り抜けてから障害者が手に入れることができる友人は99%同じ障害者か相当な物好きかのどちらかでしかないです。
社会はそういう利害関係の下で回っている。

僕がASDであるためにそういうイメージを抱いて生きている可能性は無きにしも非ずですが、そういう人物たちに「人生の航路図」を描かせることはできません。
できないんです。僕の実体験がそう語っているように。

N先生は僕に社会における合理的な思考を「相手を観察すること」から学ぶことを示してくれました。
ASDに苦しむ各位は是非参考にしてほしいのですが、自らの興味、尊重を他人にいくらか向けてあげてください。面倒だし疲れますが、あなたの人生が幸せになります。
自分の世界観で語っちゃダメです。相手に寄りそうか、相手の考えを素直に聞くことが必要。


合理性への適応と、全能感からの脱却

そういうわけで「正常な」人間の一部分を手に入れた高校時代ですが、僕にはなんと彼女がいました。
僕に詳しい人はその人物が誰か当てれると思うんですが、どうぞ胸の奥にしまってください。
彼女は僕と違って目立った障害のない一般人でしたが、彼女は複雑な家庭環境と経歴によって将来に暗雲が立ち込めていました。
僕はそれをなんとかできると思い込んでいた。あのN先生から受けたアガペーを、今度は自らの手で再現できると思い込んでいた。
現実はそう甘くありません。当たり前だよね。
彼女が生き残るためならなんでもやりました。そう、「彼女」になることだってね。僕は彼女を生き残らせ、一人の個人として生かしたいと思っていたわけです。

まあ、破綻するよね。彼女は僕に「彼氏」であることを求めていたけど、僕は「一人の人間」となることを求めていた。これが二人の仲を分かつ決定打になり、結局破局しちゃいました、というオチ。
ほんとはもっと何かできたと思うんですけどね。あんまりにもひどいことをしてしまった。

同時にこの破局が僕の内面に存在した全能感を打ち砕いたわけです。
これで、ASDであることによって発生したすべての負債が壊されました。
読者の皆様はここまで読んでお気づきになったでしょう。

「あれ、社会に生きようとするなら当たり前じゃね?」

正常になることこそできたが、それがスタートラインであり、強みとなるわけではない。

なんという前途多難。
周りが50m走をしている間に僕は100m走をしていて、しかもそのタイムは50m走と同等に扱われるわけです。そしてこれはチーム競技で、自分が遅れれば遅れるほど迷惑になる。
障害者として生まれることは、周囲に迷惑をかけるだけでなく自らの人生も台無しにするのです。同類の皆には悪いけど、これが現実です。


生き残ることができたのは幸運でしかない

狂人は正気のフリをすることを覚えてしまいましたが、もう少しお付き合いください。
自らの出自、そして自らに課せられた負債、その他もろもろを受け止めて無気力になっていた僕に未来はないはずでした。だって、生きる理由があまりにもないんだもの。
人に与えられた無償の愛を、他人に施そうとして失敗するんですよ。何の役にも立っていない、クズ野郎なわけです。

この時点で、高校三年生。Twitterのプロフィールにある「余命6000日」はここからです。
ただボーっと生きて、漠然と死ぬ予定だったわけですが、なんと適当に受けた結構いい大学の推薦入試がブチ当たって合格してしまいます
Fラン大学か私立大学に入って、穀潰しのように貪って、負債を金で返済して死ぬ。そういう予定だったのが狂ってしまいました。
こうなったからには仕方ないので、もう一度やり直すことに。

端的に言って、この合格は周囲の環境に救われ、周囲の人間に下駄を履かされてようやく手にできた合格でしかない。
生まれた環境によって人生が左右されるとはよく言われますが、障害者は特に顕著です。
僕は恵まれていただけでしかなくて、それこそドロシー翠玉の夢で語った「自らの力を誰かに役立てたい」という考えもありましたが、それも打ち砕かれ、今それを組み立て直そうとしている。
これから生きていけるのかはわかりませんが、環境の力を借りて僕は生存することに成功してしまいました。


障害者に生まれるデメリットが多すぎる

ここまで書いた僕の個人的な経歴は、12年間に及ぶ闘争の末に書かれています。成人するまでの2/3を投資して、ようやくスタートラインに立てた。
成長速度は人それぞれでしょうが、こんなクソみてえな負債を背負わされた状態で生まれて、それに自覚的でない状態で生きていることができなかったのなら、これだけの時間を支払ってでも「修復」しなければならなかったんです。
いや、そりゃ「そのままで」生きることもできたはずです。だけど自分が不幸にならないような生き方を模索するとなると、これだけの時間をかけてようやくスタートラインに立たせてもらえるというクソ設計なわけで。
たかだか遺伝子がバグっただけで、人生の初期の大半を苦難の行軍へ突っ込むか、社会的な死を食らうことが確定してしまう

優生思想は一般に「優生」の定義が曖昧であることを基準に批判されますが、僕は障害を持ってうまれた当事者としてはっきりと言います。
この遺伝子を遺すのはあまりにクソだ、と。
育ててくれた親、O先生、N先生をはじめとした僕を手助けしてくれた各位には本当に申し訳ないんですが、僕は早死にする予定です。
自分の遺伝子を後世に残したくない。

それはどうでもよくて、障害者として生きることにはとんでもないコストが伴うことをご理解いただけたと思います。
狂人が正気のフリをするのにかかったコストは、この文章に凝縮できているはずです。

では記事タイトルに答えて、締めにしましょう。


正気の人間を理解して、正気の人間を模倣し、正気の人間から思考パターンを奪う。

たったこれだけのことをするのに、12年かかります。
とんでもないクソ仕様!

おわりに(短め)

今回は僕の人生について綴ったものでした。こうやって公開できる形でまとめるのは案外やっていなかったのでちょうどいいと思います。
笑うなり、学ぶなり、好きに使っていただければ。

読後の感触が最悪じゃないことを願って。

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