『ナイン・ストーリーズ』と9つの感想

J.D.サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』を読んだ感想を書きます。レビューではないので、未読の人には全く意味が分からないと思います。ご了承ください。

バナナフィッシュ日和

 シビルは純粋無垢な子供ではない。嫉妬もするし考えなしで媚びをうる。ミュリエル夫人はシーモアをそれほど真剣にみないで旅行を楽しむばかり。ビーチは享楽的・世俗的で戦争の面影をみつけることさえできない。一方、シーモアは過ぎ去った戦争に捕らわれ傷ついたまま、世界から疎外されている。きっと彼は六人を殺したのだろう。上官から『あれは人間でない。木だ』といわれ、その手で殺害したのかもしれない。そんな彼にはシビルの言葉はこう聞こえる「もっと鏡を見ろよ、シーモア。お前は太ったバナナフィッシュだ。出口なんてありはしない、お前がどうなるかを知っているぞ。お前が何をするべきかをしっているぞ。お前は世界に帰れない」六本のバナナを咥えたバナナフィッシュにとって、うってつけの日とは、まさに拳銃自殺をする日であった。右こめかみを打ち抜く銃声は九つの物語を横断して響き渡る。

コネチカットのアンクル・ウィギリー

 子供は敏い。ずっと前から母のウェイカーへの恋慕を感じとっていたのかもしれない。そして旧友の訪問がきっかけで、ウェイカーへの恋心が非可逆的に膨らむことを感じ取ったのかもしれない。想像上の恋人であるジミーは死んでミッキーがその後枠におさまった。節操もないその行為にエロイーズは、自身をそこに見出し羞恥と憤慨を覚え、しばらくした後に娘の死んだボーイフレンドにウェイカーを重ね涙を流す。娘も泣いていた。母の愛情が得られないことを嘆いていたのか、それとも……。エロイーズはようやく家族と向き合えるようになるだろう。これからは本当の絆で結ばれるのだろう。そう思うと多少の救いを感じる。

エスキモーとの戦争前夜

 一見強気で傲慢だけれどどこか友情に臆病なところがある妹、固辞されたサンドウィッチを好意の印としてさしだす兄、ともに不器用な性格をしている。二人にとってジニーはよき友人になれることが明示され読後感がよい。人によって接する態度を使い分けられるジニーは天性の人たらしではあるが、きちんとした人間より少しダメ人間を好きになってしまうのかもしれない。これもまた人間の一つの側面か。兄との会話・その友人との会話は、その内容や口調を比較すると面白いし分析すればするほど兄の方に愛着を覚えるようになる。多分妹はお兄ちゃん子だとおもう。お兄ちゃんは戦争に行けないことを気にかけて破れかぶれになっているようだけどそのあたりの機微は解釈できない。全体的に若者の甘酸っぱい友情や恋の芽生えが等身大で描かれ清涼感を残す傑作。

笑い男

 子供から見た大人は、いつだって実物より大きく見えるようなものだ。そして一方、憧れの大人の限界や挫折を目の当たりにして等身大の人間として捉えることが、子供にとっての通過儀礼となる。醜くもカリスマをもった屈強な男は不公正に屈した。背の小さいながらも少年たちの憧れたるチーフは理想的な女性のなんらかの破滅に至った。少年の淡い恋心も終わりを告げる。生き生きとした少年たちの描写が鮮やかに描かれているのが印象的。一方作中作である笑い男の寓意は少しはっきりしない。

ディンギーにて

 家出はしないと約束をした少年がその約束を違えた時、少年は何を理由にするのだろうか?そのとき母親はどう対峙すべきだろうか?グラース家の長女ブーブーはこれ以上ないほど完璧な母親を演じてみせた。ライオネル君の理由もまた正当なものであった。我々がどれほど正しく生きようとしても、世界は否応なく不幸や理不尽を持ち込んでくるものだ。この短編は、そんな理不尽に立ち向かう全ての人に対するエールとなる。

エズメに――愛と悲惨を込めて

 エズメとの出会いの描写は映像作品を見ているかのよう。チャールズの子供っぽい仕草、エズメの精一杯気張った言葉遣いがありありと目に浮かぶ。彼女が悲惨に興味を持つのはなぜだろう、主人公に興味を見出したのはなぜだろう、あのような目をしていたのはなぜだろう、と思いを馳せるとき、機能不全からの回復はエズメにおいてもなされたのではないかと救いが得られる気持ちになる。『バナナフィッシュ日和』と同じモチーフでありながら別のありかたを提示しているという点で対比されて読まれるべき。それにしてもエズメはなんていじらしく気丈で分別があり家族愛を持ちつつ、子供らしい愛らしさを備えているのだろう。もし生まれ変われるのならば彼女と社交を持てる人間になりたいと心から願う。

可憐なる口もと 緑なる君が瞳

 明々白々な叙述トリックであるのだけれど、だからといってすっきりする類の話ではない。わざわざ邪推して勝手に期待して騙されたと考えるのか、さらなる謎によって整合性をとろうと歩みをすすめるのかを試されているような気分になる。サリンジャーはそのどちらでもない道をよしとしそうではあるが……。それとは別にここにひとつの対人関係の縮図があるように思われる。誠心誠意心を砕いて相談に乗っていながら女を抱き不実をなせる両面性、意見を聞く気もなく思いをぶちまけるだけの相談という名の暴力。人生とは伴侶と職業が主要な部分をしめるという世俗性。登場人物全員が露悪的に書かれていると感じるのは私だけだろうか?

ド・ドーミエ=スミスの青の時代

 読んでいて『ライ麦畑でつかまえて』を想起させられるのは自分だけではないだろう。才気あふれる青年が、高すぎる自意識と無節操な活動力をともなって世界に自身を投げこみ、幾分身勝手に傷ついていく様は、ホールデン君だったり、かつての自分を見るような気持になる。後半に配置されるエピファニー的出来事を読み解くことはできなかったので表面的な理解にとどまってしまっている。

テディ

 東洋哲学的な思想小説として捉えてしまうとありきたりの面白みのない解釈しかできないかもしれない。二度目の通読では印象ががらりと変わり、テディ以外の人間がひどく俗っぽく見えてしまうという不思議な読書体験を得られる。九つの小説の最後に配置され、第一の小説と構造的に似た結末は、輪廻転生なる概念のもと、九つの小説が円環構造をとるよう調和的な配置がされているように思えてくる。九つの短編小説の終わりとしてこれ以上ないおさまり方をしていると思う。


終わりに

 サリンジャーの小説の登場人物は自由気ままに動き回る。彼らの行動原理は考えれば理解できることもあるし、不条理な謎として残されることもある。むしろ単一の解釈に納められるのを拒絶しているかのようだ。しかし、人間なんてそのようなものかもしれない。気まぐれで非条理で多面的なあらわれをすることこそ、人間の愛するべき特徴であるとさえいえる。