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落ちこぼれ研修医の時代と、その後の話。

  医学部を卒業して国家試験に合格すると、2年間の「初期研修」があります。この2年間は、法律上は医師ではありますけれど、たいていは研修医と名乗り、研修医として扱われることになります。実質的に半人前ということですね。2004年(平成16年)スタートの制度です。
 初期研修というのは、年度によって多少変わりますけれど、基本は、「ローテ」(ローテーションの略)といわれる、いろいろな科を1−2ヶ月ずつ回るという形式です。いくつかの「メジャー」といわれる科(内科とか外科とか救急とか)は必修で、多少は本人の希望する科も含むことができるという感じです。いまはちょっと違うかな、わたしが初期研修していたころは、そんな感じでした。
 初期研修は、総合病院(大学病院含む)で行います。わたしが選んだのは、総合病院の中でも、厳しい研修を行うことで有名な病院でした。やめとけ、といまのわたしなら言う、でも、当時はね。がんばらなきゃって思ってたから。

 さて、この初期研修の間、わたし、そもそもものすごく体調が悪かったんです。持病の調子が最悪の頃でした。とてもとても出勤なんかできない日も何日かありました。薬のせいもあって頭がまったく回らない日もありました。また、温暖な本州から雪国の札幌に来て日が浅いというのも、事態を悪化させたように思います。体調の問題だけではありません。ローテもきつかったです。慣れるのに時間のかかるASDのわたしとしては、慣れたころには次の科、というのがほんとうにきつかったです。

 2年経過。わたしは、その病院の初期研修制度が始まって以来の「できない研修医」と、研修委員会から認定され、しかも、留年が決定しました。出席日数が足りず、履修し直しの科があったんですよね。すでに、精神科医になる決意はしていたので、精神科医としての研修を一刻も早く始めたいのに、1年足止め。ショックでした。
 そして、履修し直しの科は、じつは3ヶ月分だけでした。9ヶ月余るわけです。病院始まって以来のできない研修医ですから、もういなくていいよ、と宣告されかけたところで、猛烈な人手不足で猫の手も借りたい産婦人科から、病棟医として働いてほしいとの声がかかりました。産婦人科医のみなさんが手術している間の、入院患者さんのいろいろをケアする係です。くびになっても暇なばかりで何をしていいかわからないし、というより、声がかかったのが嬉しくて、二つ返事で承諾しました。必要とされることなんて、初期研修の間に一度もなかったから。研修医なんてもともとそんなもの、ですけどね。研修医が戦力としてカウントされる病院もあるにはあるけど、そうでない病院もあります。わたしの研修した病院はその中間くらいで、とても優秀な人は戦力として扱われる、みたいなところでした。わたしは当然、戦力外だったわけです。

 産婦人科の病棟医としての生活がスタートしました。
 「……まじで?」 病棟に、医師はわたししかいないんです。3年目、初期研修終了直後のわたしだけ。産婦人科の医師は手術の合間にちょっと顔を出すだけで、患者さんに手術の説明をして、抜糸とかして、すぐいなくなる。当時6年目くらいの産婦人科でいちばん若い医師が、手術が全部終わったあとに病棟に来て報告・相談には乗ってくれましたけど、日中はずっと一人でした。その病院の中でも評判のよい部門で、手術が上手だということで患者さんの評判も上々の科でした。それでも、病棟にはわたしだけ。

「あの、わたしが来る前は……」
「手術の合間に、必要なら顔は出してたよ」
「合間って、全員が手術中とかありますよね……」
「それが問題だったんだよね、来てくれてありがたいよ、よろしくね」

 いまはさすがにそんなことはないのかな、まあ、10年以上前の話ですから、時効ということで。

 わたししかいないので、できることはなんでもやりました。たとえば点滴の内容を調整するとか(間違うと脱水になったりむくんだりします)、感染症には抗生剤を選ぶとか、化学療法の副作用対策とか(吐き気とかいろいろ)、がんの患者さんに痛いと言われれば痛み止め、場合によっては麻薬を調整するとか、放射線治療に付き添ってついでに不安について聞き出すとか、手術説明が理解できなかった人(ほぼ全員)には補足説明をするとか、大きな手術の後のリンパ浮腫(リンパ管が切れてしまうためけっこうむくむ)のマッサージをマスターしておいて指導の補足をするとか、みなさんあまりに手術説明について理解できてないので説明のための紙を作るとか。その紙は、わたしが去ったあともかなり長い間使われていたとのことでした。いまはさすがに使われてないと思いますけれど。

 もちろん、すべての知識がもともとあったなんてことはありません。病棟に専属の薬剤師さんがいたのでほとんどのことはとりあえず相談して、ひとりで計算などできるようになった後もチェックしてもらい、緩和ケア部をたずねてがん患者さんの痛みに使える薬剤とその特徴を教わり、放射線治療センターに足を運んでレクチャーを受け、放射線診断部に所属となった同期に読影の手ほどきを受け、リンパマッサージ担当の看護師さんにマッサージを習い、手術については本を調べて作った紙を産婦人科医に見せて回り、周りの協力を得るしかなかったので、なんでもやりました。

 数ヶ月経ちました。産婦人科の部長から声をかけられました。
 「最近、患者さんたちの術後経過がよくなって、退院が早くなってるんだよね。あずさ先生のおかげだと思う。ありがとう」
 「よかったです。がんばったかいがありました」
 「ところで」
 「はい」
 「初期研修担当の先生に、あずさ先生はとても優秀で助かっています、うちの病院の初期研修って素晴らしいですね、ってお礼を言ったんだよね、そしたら、あずさ先生ってあのあずさ先生ですか、って驚いててね。あずさ先生って名前の三年目って一人ですよね? とたずねたら一人です、っていうんだよ、なんなんだろうね」
 
 なんなんだも何も本気で落ちこぼれだったんですけどね。パフォーマンスのレベルが変わったのは、体調が多少よくなったこともありますけれど、たぶん、責任を引き受けたからだと思います。初期研修の間は責任はなかったんです。上級医がいつもそのへんにいましたから。それに、主治医じゃないし1−2ヶ月でいなくなる研修医に、責任などあろうはずもなかったんです。

 残留のお誘いはありましたけれどそれは断り、次の年には精神科医としての研修をスタートさせました。その話はまたいずれ。


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