恐れを手放す難しさ

うちの次男は手がかかる。
例えば、朝の用意。
学校に行く前にならないと、その日の準備をしない。前日にやった宿題、筆箱、給食の用意。一度か、もしくは二度ぐらいでそれらをランドセルに入れたりすることができれば良いのだが、

宿題を入れる→歩き回る→筆箱入れる→ちょっと踊る→給食の用意→マンガ読む。。。

と、こんな感じなので、30秒で終わるであろうことが、3分ぐらいかかる。

しかしこれは、言い続けて4年余り。
言われ続ける次男は、もはやもう、なにをどうすれば効率よく進むのかわからず、そもそも効率よく進めることなんかどうでもいいと思っているので、私は最近なにも言わない。

だって、私もしんどいし、次男も、もうしんどいだろうから。

私の背景には、『ちゃんとしなくてはいけない。周りに合わさなければいけない。もっと頑張らないといかない。価値のないことは、例え好きな事であっても意味がない。遅刻しない。聞き分けよく。先生や近所の人には敬語で。親に反抗してはいけない。。。』まだまだ『~してはいけない』『~でなければいけない』が限りなくたくさんある幼少時代を過ごしてきた。

それをしなければ、どうかるか。
『立派な人間になれない』『人としてダメ』
と言われて育ってきた。

私は今、次男に対して何を恐れているのか。
『同じことを何回言ってもこの子には伝わらない。用意ができない。片付けない。イコール、立派な人間にはなれない』
そういうことが怖いのだと思う。

でも本当に怖いのは、そんな思考から抜け出せない自分だ。

次男は、とても優しい。
私がどんなにめちゃくちゃ怒った日でも、私の喘息の発作が起きたら一番に水を持ってきてくれて、背中をさすってくれる。『大丈夫?大丈夫?』と心配してくれ、寝る前には『ママ、いつもありがとう』と言ってくれる。

これで、いいのに。もう充分なのに。この子に、いったい何を求める必要があるのだろう。

大切なことは、その子が、その子でいられること。

自分が与えられてきた恐怖を、子どもに引き継がないように。
とても難しいのだけれど、恐れの感情は、もう手放したい。

恐れの感情はとても強い。

日々、自分が心地よくいられるようにするには、自分の細かな気持ちに気付く努力が必要だ。私の場合、特に。

今日1日、私に必要なキヅキが起こりますように。
と願う毎日だ。