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新年あけましておめでとうございます。

今年から初めること。


新年が気がついたら開けてしまった。結局どこを区切りにするかで、世間と比べるとハッピーニューイヤー!という感じはしないのだ。
むしろ、3月から4月に変わるタイミングの方がセンチメンタルになるし、
なんとなく、「さぁ、次のステージへ」という印象を強く受けてしまう。
決算も3月の企業が多いし、これは学生から社会人になっても
変わらなかった感覚。
#この感覚は俺だけの可能性大

とはいえ、何かをスタートさせるための、カコツケとして、新年を
使わない手はないというのも考えだ。何か新たなにやり遂げようとしても、
難しいので、去年やろうとしたけど、能力が低い(具体的にはしんどくなって継続できていなかったことが多い)のでそのリベンジをしたい。

自分探しという言葉は嫌い(中田英寿だけしかあの言葉は使わない方がいい)だが、あえて、この正月休みに自分自身とはどんな人間なのかを振り返ってみると、「本を読むのが好き」「漫画を読むことが好き」転じて「人に何かを話すことが好き」「何かを書いて(テキストベースで)で人に動いてもらうことが好き」と言ったところだろうか。あと、嫌いなところを探ると、朝まで飲み歩くのは好きでないみたいだ。地元の悪友と学生時代依頼ぶりに、オールナイトを経験したが、後悔しかない。恐らく現場では、楽しかったのだが、あれはまやかしの楽しさであり、アルコールという魔力による錯覚である。もう2度とやらないためへの戒めの対価だと思うことにした。

さて、これらを鑑みて、今年から実験的に1月から1日、3千文字以上の文章の投稿に取り組んでみたい。さぼってしまう性格である旨、1ヶ月区切りとする。どういうことかというと、1日2投稿(6千文字)はOKとすることとする。これは、34歳から始めて、ずっと達成してきている1日1万歩達成に近い。例えば1日目0歩で、2日目2万歩であれば、平均1万歩になる。この考え方で一度このnoteに取り組んでいきたい。

何をテーマに書くのか


  1. その日に見聞きした情報

  2. 1.からのアクションプラン

  3. 不安事項や課題や問題

書きたい内容は上記を想定している。構成自体も上記で進めていきたい。
小見出しは3ぐらいが読みやすいかなと思っている。完全にその通りいできないかもしれないけれど、これを書くことを目的に、日々起こるさまざまな経験や自分自身が取りに行った情報をしっかりとアウトプットするための手段になれば、それは最終的に自分自身の能力開発や成長に繋がると思っている。
#前向き
今、本当に今の今、書き進めてみて実感しているのだが、書いていると、
「あっ、自分はこんなことを考えていたのか」「確かにこういう捉え方もできるよな」とか、色々な発見を体感している。
昔、何かのインタビューだったかと思うが、RADWIMPSの野田洋次郎氏がこのようなことを話していたことを思い出す。
「曲を制作するモチベーションは新しい自分を発見すること。あっ俺、こういうふうに考えていたんだという発見がある」
申し訳ないが、かなり前のインタビュー記事で、文字でメモもしていないので、そっくりそのまま同じ言葉を話していないことはご容赦いただきたいが、この言葉は非常に共感でき、かつ実感している事実である。
自分がどんなことを考えているのか、自分がどういうことに琴線が触れるのか。それを知るために、文章を書いたり、誰かに話しをしたりする行動は、
極めて重要なことだと思っている。

大晦日恒例、紅白歌合戦について

今年も紅白歌合戦が開催された。正直申し上げて、あまり興味がないもので、自ら「よし、今年も紅白歌合戦をみてやろう」とは思わない。
ちなみにこれは悪口ではなく、正直な気持ちの話。日本人はこれを
悪口と捉えるきらいがあるが、それは違うので、あしからず。
好き嫌いの話であり、興味の有無の話である。
そこを否定的に捉えてしまうと、「〇〇が好きで興味があるんです」
という会話ができなくないか。だって、「◯◯が好きで興味がある」
ということは、「△△は別に好きではなくて、興味がない」から◯◯が好きに
なるわけである。何でもかんでも好きである方が、人間としておかしいと
思うのだけれど。おっと、脱線してしまったので、紅白歌合戦に話を戻そう。気になってしまった情報は「紅白歌合戦の視聴率の話である」
どうやら歴代ワースト2位の視聴率だったらしい。その情報は本当に必要だろうか。ということについて問題定期をしておきたい。歴代はいつから視聴率のデータを取っているかはともかく、例えば1970年の視聴率と今の視聴率を並立で考える(分析する)こと自体に違和感がある。
なぜなら、1970年にスマホやタブレットがないからである。
うちは4人家族で、もはや、1台のテレビを家族全員で視聴するということが本当になくなってしまった。先に言っておくが、私はこれを悲観的には捉えていなくて、「家族全員違う人格であるのだがら、各々が観たいコンテンツを視聴すればいいじゃん」という考え方の持ち主なので。
ただ、過去の日本国民の生活様式が同じでないデータを比較することは、
本当に意味がない
よなと思うわけである。

データを扱上での注意喚起


AIがどうのこうのと言われ出した時代から、データ活用における価値は、
上昇も上昇傾向である。それについては「良い傾向」と思う。自分自身が今何を求めているのか、何を買うのが適切で、何に時間を使うのが最適なのかを過去のデータから割り出して、ご教示いただけるなんて、何て素敵な未来なんだろうと思う。でもそれらのデータの「前提」がちぐはぐだとしたら、素敵な未来は保証されないよなとも思うわけだ。
今回の紅白の視聴率もまさにそれで、ワースト2位だけのデータでは不足していて、恐らく分母のカウントの仕方を再定義(Appleのパクリ)する段階にきているはずだ。これだけTverでリアルタイム配信が可能になって、録画すらしなくても、スマホで後から人気コンテンツを視聴できてしまえば、リアルタイムの視聴率の価値(意義)は絶対に下降しているはずである。
でも、視聴率がワースト2位という報道には悪意があり、いやいや視聴率の分母自体を再定義すれば、もっと視聴率は上がるはずだぜ!とは思う。別に紅白のスタッフと何ら関係もなく、かなりフラットに意見を述べているつもり。

戒めも含めて


私自身の仕事においてもよくデータを使うことがある。しかし、20年前のデータからの推移を見せることで「何を提示したいのか」をしっかりと言語化しておく必要を感じるのだ。「へーすごい、じゃあその案でいってみよう」
となったとしよう。それで、顧客の潜在的ニーズとの相違が発生してしまっては、元も子もないわけで。判断すべき役職者が正しい判断ができるような
判断材料(企画書、データ、説明)を提供する必要があると紅白歌合戦視聴率報道から感じた。この前提にミスがあると、その企画書や説明がうまかったことにより、大きな損失や誤った企画を通してしまうことになりかねない。その企画をリリースすることによって、我々の信用を失墜させてしまうことだってある。特にデータを企画提案の根拠に活用する場合、それらのデータの分母が現代において、果たして適切な分母となっているのかを今年の資料作成においてしっかりと見つめ直すことを心がけて行こうと感じた。

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