第45話.ニュートンのキャットドア【Original Sin】
降車ボタンを押す怜莉。手元のケータイを閉じて、暫くするとバスが停まる。降りた先には洋菓子店の駐車場。そして、千景が自分の車に寄りかかっている。
「急用だった?」
声を掛ける怜莉。
「千景、此処、従業員用じゃないの?」
「明日のハロウィンのお菓子、追加注文に来て、店長の出勤待ち」
未だ開いていない店の入り口を見る二人。白とオレンジがアンバランスに配置された店の壁にアンティーク調のガラスドア。
「ごめん。昨日、電話貰ったの、さっき思い出した」
「変だよね?」
「何が?」
リュックを肩から下ろす怜莉。ワインレッドのシャツとダークグレーのパンツを合わせた千景の隣に並ぶ。
「怜莉の理想の女性ってどういうタイプなの?」
「は?」
突然、千景が発した言葉に怪訝な顔を浮かべる怜莉。
「注意しないと彼女の『印章』は視えなかった。視るの長けてる程度じゃ無理」
二人の前。半端に舗装を辞めた古い歩道。学生が通り過ぎていく。
「オレ、部外者なんで。乗り掛かった舟でもいざとなったら、百音を連れて出て行くつもり」
「千景さ。前から思ってた。オレの知らない事も知ってるよね」
「6年前。『中央』に呼び出された百音が帰って来た途端、『アキさんの婚家、想像以上にヤバかった』って言った」
「……アキさん?」
「國村先生の母親」
「え、ちょっと待って。婚家って……もしかして」
「あ」
「あ、じゃないって! もしかして國村先生と桜海って異母兄弟なの!?」
「そうなるけど。アキさんは内縁」
「ね? 桜海は知ってるの?」
「云わない様に念押されてる。兄って知ったら懐くじゃん。って、オレも君らより歳上なんだけど」
ブラウンのスーツを着た怜莉は俯き、腕を組む。
「自信無くす癖、辞めたら? オレを見習って堂々としとけって」
「……うん」
「オレはオレで無神経だから、怜莉を見習えって」
千景の目線に合わせて、顔を上げる怜莉。四車線の道路を往来し、何台もの車が擦れ違う。
「百音と知り合ったのはバイト先の書店って話したじゃん。店長が水墨家の國村秋の研究会に入ってた。アキさんの家は女は要らなくて隠せなくなって、ツルさんが中央に連れてきた」
「ツルさんって東睡の前任の管理者だよね?」
ちらっと怜莉を見る千景。
「オレ、あの人、嫌いでさ」
「会った事、あるの!?」
「アキさんの絵、殆ど保管してたから。で、あの人、一度でも助けられた人間に、どういう気持を向けられるのか全く分かってない。そういうの腹立つ」
ボンネットに置いていたペットボトルの蓋を回し、口元で傾ける千景。
「塾講師、辞めるのそういう理由もある。無責任に教え子を増やしたくない」
「……千景、真面目だよね」
「……怜莉は其れで良いの?」
「何が?」
黙り込む二人。
「彼女。怜莉の『曝露』の影響、受けてたじゃん」
「え?」
車体から背を離して、後方を振り返る。千景と怜莉の間。怜莉が向けた背にかかった白い靄は一瞬、円状に広がる。ハッとして、気まずそうに顔を戻す怜莉。
「自分じゃ確認出来ないじゃん? 桜海がよくやるボケなんだけど?」
「……うん」
「怜莉。桜海から彼女を返してって云われたらどうする?」
「……返す? どういう意味で? 千景、何処まで知ってるの?」
「昨日、國村先生と梶さんと話してて思っただけなんだけど『中央』の敷地上空に於菟の『支配の印章』があるじゃん? 端って見た?」
此処から3バス停先。中央の建物がある方角の空を見る怜莉。
「梶さんが云うには市を全体、隣の市や県の境を少し超えて広がっているらしくて。おかしいと思った事ない? 人の背中に現れる物が真上にあって」
「背と云っても、頭上に近い位置の場合もあるし……」
「でも本人が動いたら、着いてくるじゃん?」
蓋を閉めてたペットボトルをまたボンネットに置く千景。考え込む怜莉。
「國村先生が於菟は近くに居ると考えている根拠が其れ。でも、何十年も全く移動しない人ってどういう人物だと思う?」
答えない怜莉の横顔を見る千景。
「怜莉。何か隠し事してる?」
「……危惧している事なら」
「何?」
「彼女の亡くなった祖父が於菟って名前。本当にそれだけ」
「じゃあ、オレも話す。此の店」
指を差す千景。[ Monkey and Moon ]という店名と、月からぶら下がる猿のイラストが印刷された壁面看板。
「卒業した元生徒が働いてるんだけど、店のオーナーが『東睡』と『中央』の出資者。百音が経理もやってるから知ってた。『東睡』も『中央』も地元の人間が桁違いの額を『於菟宛』に援助している」
店の壁面を眺める怜莉の前を市営団地行きのバスが通り過ぎる。
「正直、百音の我儘に付き合って、家、建てたのも後悔してる」
「結婚して直ぐ、家建てたって訊いたけど、理由、訊いても良い?」
「……オレも百音も帰りたい家がなかったから。でも此の街じゃなくても良かった」
開館前の図書館入り口固定された傘立てに四本の傘。どれもロックされている中に、怜莉に借りた傘が無い。りんねは硬直したまま。やっと我に返った様に辺りを見回して、建物脇の入り口に急ぐ。しかし捜している傘は無い。
灰色の髪を下に向けて、木陰が続く路地裏を歩き続けるりんね。いつの間にか、迷い込んだブロック塀に挟まれて、先が見えない長い道。歩く度、格子柄のロングスカートはミュールの先も隠してしまう。
「りんね!」
突然、壁の向こうから女性に声を掛けられて驚いて、様子を窺っていると、母親らしき女性が『りんね』という名前の子供に話し掛けている。
「……りんね?」と呟くと、背を向ける。
「……傘がないの」
云って、上げた顔はりんねではなく鏡花の顔をしている。目の前にはこの世のものではない者が尋ねて来ない様に閉ざされた西の棟門。
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