第44話.ビオ・サバールの法則【Original Sin】


 怜莉は手を伸ばし、コンロのつまみを回す。
「……名前」
 云うと其の場に座り込もうとする鏡花を右腕で抱え込む怜莉。それから左腕も添える。
「怜莉さん。私は……りんねだよ」
 顔を覆い、泣いている鏡花が答える。下がる掌に落ちるフリースの袖。
「……うん」
 怜莉は背にあるうさ耳のフードを静かに被せる。前に垂れる白く長い耳が鏡花の顔を隠す。
「りんね。落ち着いて。大丈夫。ずっと一緒にいるから」
 兎の片方の耳に触れた後。いつもよりも僅かに背の低い『りんね』を、怜莉は強く抱き締める。

 白い無地のパーカーに格子柄のスカート。ウォークインクローゼットの鏡に姿を映す、りんね。
 寝室と居間にある部屋。パーカーの袖口にある兎の刺繍。棚に並んだ本。
 居間に出て、テーブルに食器を並べる怜莉に声を掛ける。

 半分に分けた両面焼き。チーズが溶けたトースト。りんねが作ろうとしたハネムーンサラダはメキシカンシーザーサラダになっている。
「大丈夫?」
「……うん」
 ローソファに座るりんね。怜莉も手に持っていたスープカップを二つ並べ終えて、隣に座る。
「ごめん。朝から変な話して」
「ううん。私が昨日、おかしかったから」
「りんね。その事なんだけど……とりあえず食べようか?」
 手を合わせて「頂きます」という二人。
 トーストを齧るりんねの様子を眺める怜莉。視線に気が付いて、やや俯くりんね。
「……桜海の話は以前したよね? 職場の同僚で、幼馴染を亡くしてるって」
「うん。譲ってくれたエナメルネイル。ホワイトデーに渡す予定だったんでしょう」
「そう。まりかさんっていうんだ」
 ひよこ豆のスープに口を付ける怜莉。考え込む、りんね。
「りんね、一年間の記憶が無いって云っていたけど……まりかさんが関係あるのかもしれない」
 りんねは首を傾げながら、思い出す。黄色いカバーを被せたランドセル。迷子の様子の小学生を相手する店員。
「……昔、ドラックカメヤで働いていた女の子と一緒の名前」
「カメヤで? 会った事あるの?」
「えっとね。会ったことは無いの。お店の人が辞めちゃった女の子の話をしていて」
 四分の一食べ終えたトーストを皿に置くと、怜莉に取り分けてもらったサラダの器を受け取るりんね。怜莉もチップスとレタス、海老を上手に挟んで食べ始める。
「えっとね」
 りんねはハッとして怜莉の顔を見る。
「さっき、怜莉さん、まりかさんが私から時間を借りてたって云ってた?」
「……うん。ごめん。意味が分からない事を云っているとは思う」
「亀と時間って云ったら、浦島太郎。じゃあ、私は竜宮城に居たのかな? あれ? だったら時間の経ち方がおかしい?」
一つの皿に半分に分けられて載っている目玉焼きに箸をつける、りんねと怜莉。
「浦島効果ってわかる? 宇宙旅行から七倍の時間が経っている」
 りんねは自分の記憶が無くなった始まりの日が2001年3月8日だと思い出す。
「玉手箱を開けたとしたら梶さんじゃないかな?」
 やっとトーストを手にする怜莉。
「……今朝の夢の感覚だと、まりかさんは梶さんを信頼していた様に思う」
「怜莉さんの夢の話?」
 怜莉の顔をりんねはじっと見る。

「サラダもスープも全部美味しかった」
笑顔で云う、りんね。黒いタイツを履いた足をミュールに滑り込ませると、玄関の内側で振り返る。怜莉は笑いながら、革靴を履いて立ち上がる。
「やっぱりオレも一緒に行こうか?」
「ううん。傘おいてきちゃったし、図書館未だ開いてないから」
 続けて、りんねは「ごめんね」と小さく云う。
「昨日、仕事も休んじゃったし、一日ぼんやりしていたんだと思う」
「オレも最近、……職場で色々あったりだし」
 玄関の近い距離で話し続けるりんねと、怜莉。
「ね。怜莉さん。もし、私がね」
 云い掛けてやめて、切なそうにりんねは続ける。
「早く行かないとバスに乗り遅れちゃうね」

 手を繋いで、マンションのエントランスを出て、アプローチポーチから道路に出る。目の前に白い車が止まり、助手席側の的が開く。
「千景?」
「あれ? え?」
 りんねは運転席に居る男性と目が合い、慌てて、怜莉を見る。
「怜莉の彼女? え? どうやっても会えないって訊いてるんだけど?」
「何の話? もしかして桜海?」
 怜莉の手を強く握るりんねの手。僅かに震えている手にかかる白い袖口。
「大丈夫。職場の人なんだよ」
 顔を下に向け続けるりんねの灰色の髪が風が揺れる。
「朝から何かあった?」
「あー莉恋を学校に送って来たついで?」
「……学校?」
 りんねの微かに呟いた声に気付く千景。シートベルトを外して、後部座席に身を乗り出して、シート下に落ちている校帽を拾う。それから捻った姿勢を戻すと、窓から怜悧に帽子を渡す。
「莉恋、私立の小学校に通ってんだよね。忘れ物、多くてさ」
 怜莉の持っている校章入りの帽子をちらっと見るりんね。
「知らない学校……何処にあるの?」
 遠い場所の説明をする怜莉と、だんだん顔をあげていくりんね。握る力も表情も少しずつ緩んでいく。
「とりあえず、二人とも乗ったら?」
「わ……私は大丈夫です」
 手を離そうとするりんねの手を今度は怜莉が強く握る。
「千景。折角だけど」
 千景はドリンクホルダーから烏龍茶のペットボトルを持ち上げて、蓋を開ける。
「なんて云うか普通のカップルだよね? 年齢、二十歳くらい?」
 怜莉は千景に莉恋の帽を渡すと、逆さまになっている虎のピンバッジを正しい位置に回転させる。

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