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さっき、明日の夕食のためにいつもの大根煮を作ったところです。
今回の材料は(といっても毎回ほぼ同じ)、大根と白菜とタコの練り物と鶏肉(もも)、おろし生姜とお醤油とほんだしにしました。
これで明日の夜は、なにがどうなっても、やさしい味の煮物が帰りを待ってくれていることになった。うれしい。
たまに練り物の種類を変えたり、お肉は入れなかったりもする。次はにんじんを入れようと思う。忘れそう。



昔から、休日の14〜16時頃は高確率で「無」になってしまう。やる気はなく、ぼや〜っとしながら座っているだけの生き物になる。
音楽やら動画やら何かを聴いてたとしてもただ頭の中を音が過ぎていくという感覚になってしまう。お昼頃は音楽を聴きながら「ここのメロディエモ〜〜〜」とかなってたのに。



書いといてあれだけど「エモい」という表現は、とても勿体ないなと感じる。
その「エモ」の中身が一番美味しいところなのに、その中身がどんな形・色・柔らかさ・動き・模様をしていようが、その言葉表現は被せられたが最後。途端に「何も言わせねえ!!」というくらいの圧倒的な分厚さを発揮して「感覚」全ては「エモ」の姿になってしまう。「エモ」以下でも以上でもなくなってしまう。
なんか若干怖いかもしれない。
そしたら、心の海で生き生きと泳ぐ「どう感じたか」をポイで一所懸命すくうことが大切なのかもしれない。
と言いつつも夏になったらエモをすくいきれるかどうかも分からない。むしろエモすら「こいつには手が足りないな……」と逃げていくのが夏なのかもしれない。私も夏にはもう死にたくなる(最高すぎて今死にたい、という気持ちになる)。
「エモ」より「夏」の方が怖い。




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