流浪の月


 原作と、映画に触れて 2022.05.15

原作を2回読んでいた。今回映画公開が近づくにつれ、そわそわするのは初めてだった。好きな作品だから。出演俳優さんのインタビューを読んだり、対談(広瀬×松坂×横浜)を見たり、映画を観る前にしか味わえないであろう原作の景色をもう一度おさえておこうと、気付いたら前日にまた読み返していた。3回目履修。映画館のスクリーンに向かうとき、緊張した。内容を知っているからこそ、ひとりでは観れないだろうなと思い、誘って快くOKしてくれた会社の同期、感謝。観終わった後にピザも一緒に食べてくれてありがとう。文と更紗がピザ食べるシーン読んで、(映画でも食べてた)前日から食べたかったの。。。(帰ってからもバニラアイスを食べながらぼーっとしたりした)
こんなにもひとつの作品に集中的に向かったことはない。そんな土日がたまにあってもいいなと思ったりした。とても充実していた気がするから。
観終わった後に心がずしんと重くて、ゆっくり歩きたくなるような、そんな映画を、今後も映画館で観たいなと思った。
原作を読んでいない世界線でこの映画を観たいなとも思った。いろんな方向に重みが散らばり、ぐらつく映画だけども、映像として初見で受け取ったら、どう感じたのだろう。

月が「夜に引っかかっている」
印象的な表現が原作ではいくつか出てきて、やはり映画でもキーになる月。

「目を眇める」
「射られる」
光の描写がある。
分かり合えない、一方通行になってしまった気持ちが更紗を覆ってしまっても、関係なく視界には光が差し込んでいる。
映画では、原作と違い更紗の幼少期と現在を行ったり来たりする。窓から差し込む日光はその象徴のようなものになっている気がした。

与えられた優しさは全てが優しさではない
感情が無に近づくのに、力は強くなっていく
人間が交わろうとする中で、イコールの関係が生まれるのは、当たり前ではないし、難しいことなのだと、更紗を通して思う。

文と更紗のやりとりは、最初から触れていて居心地が良い。と、原作を読む中では思っていたが、映画では、そうではない不穏な空気も2人の間に立ち込めていた気がする。
安心もあるのだろうけど、また違う、深く深く、ずっと前から繋がりが存在していたような、そんな感じ。お互いがお互いを必要としていて、そこに一般的な事実が邪魔をする筋合いはない。ない。ないのに、周りを取り巻く優しさや愛情や憎しみが、ふたりにのしかかる。逃げたいのに、逃げられない。

文と更紗は、引き裂かれたあの日からずっとお互いに会いたくて、しかし世間的にそれは許されないことで、憎まれても仕方ないと思い合いながら、ただ幸せであってほしいと願っていた。幸せなら、それでいい。こんなにも切なる願いがあるのだろうか。自由と不自由が混ざり合い、育ち方が全く違うのに、それぞれが刺激し合い、分け合い、お互いを必要としている。

映画は、やはり小説の内容をギュッとせざるを得ず、映画化とは、映像化とはこういうものか、というのを、目の当たりにしたという感じ。原作では文と更紗は一緒にスワンボートには乗らないし、亮が更紗に暴力を振るうのはもっと回数を重ねるし、自らを傷つけるなんてしないし、文が自分の身体について更紗に伝えたシーンはあんなに生々しくない。
「更紗にだけは知られたくなかった」
誰にも言えない、言いたくない、でも誰もに明かして楽になりたい、でも更紗にだけは。

やっぱり映画化されると原作とはまた違い、「映画」だなあ、と思うが、更紗が両親と過ごした、満足と愛と洒落とで溢れた日々のような、描かれなかった描写は、原作読者にしか味わえないキラキラなのだと思うと、少し嬉しくなる。

こんなに文と更紗が想い合ってる(もちろん愛とか恋とかじゃなく)の、2時間半の映画だけ観た人に伝わってるのかな?!と余計なお世話が働いてしまう脳内だけども、それはひとりひとりの受け止め方次第であり。
calicoが更紗という意味だというエピソードも、意外と出てこなかったな。

李監督が映画化すると知り、原作ファンとしてどうしても作品に携わりたいと、自ら懇願したという横浜流星。そのエピソードだけで胸がいっぱいになってしまう。順撮り(劇中の時系列通りに撮影する。予算やスケジュールの関係でなかなか成立が難しいとされる)で行われたという撮影。更紗への愛情は更紗の感情にはまることなく、どんどん歪になっていく。何を考えて、何をしようとしているのか分からない精神状態の亮は、観ていて恐ろしかった。あんなにキュートな目なのに、それに見惚れるのを忘れるくらい。対談で控えめに話す(でも計り知れないパッションや体力を持っているんだろうな)姿からは想像できなかった。

文という人間を内面、外面から作り込んでいた松坂桃李。私の勝手なキャスティングは吉沢亮だったわけだけども、スクリーンの中に居た松坂桃李は、文そのものだった。抱えているものがあまりにも大きいので、生きている中でそれを忘れられる瞬間は無いのだろうと思う。それでも、更紗という拠り所がある、更紗にしてもそう、それだけのことに希望を見出してしまうのは受け取り側として安直なのだろうか。「自分のキャリアの中で最も難しかった」と話す松坂桃李の文を劇場で観れて良かったと思う。
「警察に引き離されてから文が更紗に再会するまでに過ごした15年間の大部分は、原作には書いてありません。でも、その空白の時間を埋めないことには役は完成しない。僕の中に実感として積み上げなければならないことが、あまりにも多かったんです。
ここまでハードルが高い役は初めてでしたし、こんなに時間をかけて悩みぬき、内面を深堀りしたことはありません」

事件当時の更紗と、成長した更紗。もちろん演じる女優さんが異なるわけだけども、面影をしっかり引き継いでいて、キャスティング技術すごい。。と思った。横顔トーナメント決定戦でも行ったのだろうか。。というくらい。広瀬すずの出演している映画を映画館で観たのは初めてだった。あぁ、スクリーンに居なければならない人なんだな、と思った。重い役(この映画でそうではない役はあまり無いのだが)なので表情も重く、目を逸らしたくなるような描写もあるが、華やかさも兼ね備えているので、観続けられるというか。何が言いたいかと言うととにかく可愛い。お肌綺麗。睫毛長い。ふとした角度から見る顔がお姉ちゃんに似ていて、顔の系統違うと思ってたけどやはり姉妹なのだなと。観てから数日、寝れない夜や目覚めた朝、うなされたり泣いている更紗の顔が頭に浮かんだ。それくらい、スクリーンに映る更紗は更紗だった。
雑誌のインタビューで心に残った言葉を書き残しておこう。「小説を現場にも持っていき、更紗の心の声を読み返すことで演技のヒントをいただいていましたね。人間が演じるからこその「生っぽさ」を大事にしつつ、単語だけでもいいから、更紗の想いを拾い上げられるように。たとえば、「あの感触を頼りに生きてきた」という一節があるのですが、「生きた」でも「生きている」でもなく、「生きてきた」と表現する感覚。そういったワードにヒントをもらったりして、いろいろな感情と結びつけて演じていました。」「(リハーサルの話)中途半端に10回や15回のレベルじゃないんですよ。リハーサル含めて一生やっているので(笑)、逆に敏感に言葉が全部入ってくるようになるんです。そこまで突き詰めると、慣れとかを超えて研ぎ澄まされていくというか、より多くの感情に気づかされることになるんです」
ここまで入り込んでいる姿勢に、涙込み上げる。鳥肌も止まらない。表現者ってすごいなと。。。「向き合う」ことへの正解は無いのだろうし、人の数だけあるのだろうけども、ここまでのストイックさよ。。。あんな可愛いのに加え、、、最強すぎる。
わたしが原作を3回読んでも、たとえそれ以上読んだとしても、感じられなかった解釈を、たくさん持っているのだろうなと思うと、悔しさみたいなものもある。

おまけ
原作読んでいる時は、これ実写化されたら主題歌は絶対に「白日」だなと思っていて、それは叶わず(違う曲だったらショック受けただろうな、大々的にそういう枠で本作は歌を選曲していなかったので救われた)だったけれど、エンドロールにKing Gnu「白日」が。登場していたらしい。。。全然分からなかった。。平光さん?たちがあいみょん歌ってるのしか聴いてなかった。。。やはりあのカラオケシーンなのだろうか。

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