如来滅後五五百歳始観心本尊抄後半(観心本尊抄)要文集 若おばちゃま版

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 ただし、会し難きところは、上の教主釈尊等の大難なり。このことを仏遮会して云わく「已今当の説に最もこれ難信難解なり」。次下の「㉜六難九易」これなり。天台大師云わく「二門ことごとく昔と反すれば、難信難解なり。鋒に当たる難事なり」。
章安大師云わく「仏これをもって大事となす。何ぞ解し易きことを得べけんや」。
伝教大師云わく「この法華経は最もこれ難信難解なり。随自意の故に」等云々。
 夫れ、仏より滅後一千八百余年に至るまで、三国に経歴して、ただ三人のみ有って始めてこの正法を覚知せり。いわゆる、月支の釈尊、真旦の智者大師、日域の伝教、この三人は内典の聖人なり。

 問うて曰わく、竜樹・天親等はいかん。
 答えて曰わく、これらの聖人は知って言わざるの仁なり。あるいは迹門の一分これを宣べて、本門と観心とを云わず。あるいは機有って時無きか、あるいは機と時と共にこれ無きか。天台・伝教已後はこれを知る者多々なり。二聖の智を用いるが故なり。いわゆる、三論の嘉祥、南三北七の百余人、華厳宗の法蔵・清涼等、法相宗の玄奘三蔵・慈恩大師等、真言宗の善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵

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等、律宗の道宣等、初めには反逆を存し、後には一向に帰伏せしなり。
 ただし、初めの大難を遮せば、
無量義経に云わく「譬えば、国王と夫人の新たに王子を生ぜんがごとし。もしは一日、もしは二日、もしは七日に至り、もしは一月、もしは二月、もしは七月に至り、もしは一歳、もしは二歳、もしは七歳に至り、また国事を領理すること能わずといえども、すでに臣民の宗敬するところとなり、諸の大王の子をば、もって伴侶となさん。王および夫人は、愛心ひとえに重くして、常にともに語らん。所以はいかん。稚小なるをもっての故なり。善男子よ。この持経者もまたかくのごとく、諸仏の国王とこの経の夫人と和合して、共にこの菩薩の子を生ず。もし菩薩、この経のもしは一句、もしは一偈、もしは一転、もしは二転、もしは十、もしは百、もしは千、もしは万、もしは億万恒河沙無量無数転ずるを聞くことを得ば、また真理の極を体ること能わずといえども乃至すでに一切の四衆八部の宗仰するところとなり、諸の大菩薩をば、もって眷属となさん乃至常に諸仏の護念するところとなり、慈愛にひとえに覆われん。新学なるをもっての故なり」等云々。

 普賢経に云わく「この大乗経典は、諸仏の宝蔵なり。十方三世の諸仏の眼目なり。乃至、三世の諸の如来を出生する種なり乃至汝は大乗を行じて、仏種を断たざれ」等云々。
また云わく「この方等経は、これ諸仏の眼なり。諸仏はこれに因って五眼を具することを得たまえり。仏の三種の身は、方等より生ず。これ大法印なり。涅槃海を印す。かくのごとき海中より能く三種の仏の清浄の身を生ず。この三種の身は、※人天の福田なり」等云々。
 夫れ以んみれば、釈迦如来一代の顕密・大小の二教、華厳・真言等の諸宗の依経、往ってこれを勘

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うるに、あるいは十方台葉の毘盧遮那仏、大集の雲集の諸仏如来、般若の染浄の千仏示現、大日・金剛頂等の千二百尊、ただその近因近果のみを演説して、その遠因果を顕さず。速疾頓成これを説けども、三・五の遠化を亡失し、化導の始終跡を削って見えず。
華厳経・大日経等は、一往これを見るに別・円・四蔵等に似たれども、再往これを勘うれば蔵・通二教に同じていまだ別・円にも及ばず。本有の三因これ無し。何をもってか仏の種子を定めん。
 しかるに、新訳の訳者等、漢土に来入するの日、天台の一念三千の法門を見聞して、あるいは自ら持つところの経々に添加し、あるいは天竺より受持するの由これを称す。天台の学者等、あるいは自宗に同ずるを悦び、あるいは遠きを貴んで近きを蔑み、あるいは旧きを捨てて新しきを取り、魔心・愚心出来す。しかりといえども、詮ずるところは、一念三千の仏種にあらずんば、有情の成仏、木画二像の本尊は有名無実なり。
 問うて曰わく、上の大難いまだその会通を聞かず、いかん。
 答えて曰わく、無量義経に云わく「いまだ六波羅蜜を修行することを得ずといえども、六波羅蜜は自然に在前す」等云々。
法華経に云わく「具足の道を聞きたてまつらんと欲す」等云々。
涅槃経に云わく「薩とは具足に名づく」等云々。
竜樹菩薩云わく「薩とは六なり」等云々。無依無得大乗四論玄義記に云わく「沙とは訳して六と云う。胡法には六をもって具足の義となすなり」。
吉蔵の疏に云わく「沙とは翻じて具足となす」。
天台大師云わく「薩とは梵語、ここには妙と翻ず」等云々。
 私に会通を加えば本文を黷すがごとし。しかりといえども、
文の心は、釈尊の因行果徳の二法は妙

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法蓮華経の五字に具足す、我らこの五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与えたもう。
 四大声聞の領解に云わく「無上の宝珠は、求めざるに自ずから得たり」云々。我らが己心の声聞界なり。「我がごとく等しくして異なることなからしめん。我が昔の願いしところのごときは、今、すでに満足しぬ。一切衆生を化して、皆仏道に入らしむ」。妙覚の釈尊は我らが血肉なり。因果の功徳は骨髄にあらずや。
 宝塔品に云わく「それ能くこの経法を護ることあらば、則ちこれ我および多宝を供養す乃至また諸の来りたまえる化仏の諸の世界を荘厳し光飾したもう者を供養す」等云々。釈迦・多宝・十方の諸仏は我が仏界なり。その跡を紹継して、その功徳を受得す。「須臾もこれを聞かば、即ち阿耨多羅三藐三菩提を究竟することを得」とは、これなり。
 ㉞寿量品に云わく「しかるに、我は実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり」等云々。我らが己心の釈尊は、五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり。
経に云わく「我は本菩薩の道を行じて、成ぜしところの寿命は、今なおいまだ尽きず、また上の数に倍せり」等云々。我らが己心の菩薩等なり。地涌千界の菩薩は己心の釈尊の眷属なり。
例せば、太公・周公旦等は周武の臣下、成王幼稚の眷属、武内大臣は神功皇后の棟梁、仁徳王子の臣下なるがごとし。上行・そ無辺行・浄行・安立行等は我らが己心の菩薩なり。
 ㊱妙楽大師云わく「当に知るべし、身土は一念の三千なり。故に、成道の時、この本理に称って、一身一念法界に遍し」等云々。

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 夫れ、始め寂滅道場・華蔵世界より沙羅林に終わるまで五十余年の間、華蔵・密厳・三変・四見等の三土・四土は、皆、成劫の上の無常の土に変化するところの方便・実報・寂光、安養・浄瑠璃・密厳等なり。能変の教主涅槃に入りぬれば、所変の諸仏随って滅尽す。土もまたもってかくのごとし。
 今、本時の娑婆世界は、三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり。仏、既に過去にも滅せず、未来にも生ぜず、所化もって同体なり。これは即ち己心の三千具足、三種の世間なり。迹門十四品にはいまだこれを説かず。法華経の内においても時機未熟の故なるか。
 ㊲この本門の肝心・南無妙法蓮華経の五字においては、仏なお文殊・薬王等にもこれを付嘱したまわず。いかにいわんや、その已下をや。ただ地涌千界を召して、八品を説いてこれを付嘱したもう。

 ㊳その本尊の為体は、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士たる上行等の四菩薩、文殊・弥勒等は四菩薩の眷属として末座に居し、迹化・他方の大小の諸の菩薩は万民の大地に処して雲客月卿を見るがごとく、十方の諸仏は大地の上に処したもう。迹仏・迹土を表する故なり
 かくのごとき本尊は在世五十余年にこれ無し。八年の間にもただ八品に限る。正像二千年の間は、小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士となし、権大乗ならびに涅槃・法華経の迹門等の釈尊は文殊・普賢等をもって脇士となす。これらの仏をば正像に造り画けども、いまだ寿量の仏有さず。末法に来入して始めてこの仏像出現せしむべきか。

 問う。正像二千余年の間は㊴四依の菩薩ならびに人師等、余仏、小乗・権大乗・爾前・迹門の釈尊等

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の寺塔を建立すれども、本門寿量品の本尊ならびに四大菩薩をば三国の王臣ともにいまだ崇重せざるの由、これを申す。このことほぼこれを聞くといえども、前代未聞の故に耳目を驚動し心意を迷惑す。請う、重ねてこれを説け。委細にこれを聞かん。
 答えて曰わく、㊵法華経一部八巻二十八品、進んでは前四味、退いては涅槃経等の一代の諸経、総じてこれを括るにただ一経なり。
始め寂滅道場より終わり般若経に至るまでは序分なり。
無量義経・法華経・普賢経の十巻は正宗なり。
涅槃経等は流通分なり。
 ㊶正宗十巻の中において、また序・正・流通有り。
無量義経ならびに序品は序分なり。
方便品より分別功徳品の十九行の偈に至るまでの十五品半は正宗分なり。
分別功徳品の現在の四信より普賢経に至るまでの十一品半と一巻は流通分なり

 
  また㊷法華経等の十巻においても二経有り。各、序・正・流通を具するなり。無量義経と序品は序分なり。方便品より人記品に至るまでの八品は正宗分なり。法師品より安楽行品に至るまでの五品は流通分なり。その教主を論ずれば、始成正覚の仏にして、本無今有の百界千如を説く。已今当に超過せる随自意、難信難解の正法なり。過去の結縁を尋ぬれば、大通十六の時、仏果の下種を下し、進んでは華厳経等の前四味をもって助縁となして、大通の種子を覚知せしむ。これは仏の本意にあらず。ただ毒発等の一分なり。二乗・凡夫等は、前四味を縁となし漸々に法華に来至して種子を顕し、開顕を遂ぐる機これなり。
また、㊸在世において始めて八品を聞く人天等、あるいは一句一偈等を聞いて下種となし、あるいは熟し、あるいは脱し、あるいは普賢・涅槃等に至り、あるいは正像末等に小・権

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等をもって縁となして法華に入る
例せば、在世の前四味の者のごとし。
 
  また、㊹本門十四品の一経に序・正・流通有り涌出品の半品を序分となし、寿量品と前後の二半と、これを正宗となす。その余は流通分なり。その教主を論ずれば、始成正覚の釈尊にあらず。説くところの法門もまた天地のごとし。十界久遠の上に国土世間既に顕れ、一念三千ほとんど竹膜を隔つ。また迹門ならびに前四味・無量義経・涅槃経等の三説はことごとく随他意の易信易解、本門は三説の外の難信難解・随自意なり。

 また、㊺本門において序・正・流通有り
過去大通仏の法華経より、乃至現在の華厳経、乃至迹門十四品、涅槃経等の一代五十余年の諸経、十方三世の諸仏の微塵の経々は皆、寿量の序分なり。一品二半よりの外は小乗教・邪教・未得道教・覆相教と名づく。その機を論ずれば、徳薄・垢重・幼稚・貧窮・孤露にして禽獣に同ずるなり。
 ㊻爾前・迹門の円教なお仏因にあらず。いかにいわんや大日経等の諸小乗経をや。いかにいわんや華厳・真言等の七宗等の論師・人師の宗をや。与えてこれを論ずれば、前三教を出でず。奪ってこれを云わば、蔵・通に同じ。たとい法は甚深と称すとも、いまだ種・熟・脱を論ぜず。「還って灰断に同じ。化に始終無し」とは、これなり。
譬えば、王女たりといえども、畜種を懐妊すれば、その子なお旃陀羅に劣れるがごとし。これらはしばらくこれを閣く。

 迹門十四品の正宗の八品は、一往これを見るに、二乗をもって正となし、菩薩・凡夫をもって傍となす。再往これを勘うれば、凡夫・正像末をもって正となす。正像末の三時の中にも、末法の始めを

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もって正が中の正となす。
 問うて曰わく、その証いかん。
 答えて曰わく、
  ㊼法師品に云わく「しかもこの経は、如来の現に在すすらなお怨嫉多し。いわんや滅度して後をや」。宝塔品に云わく「法をして久しく住せしむ乃至来れるところの化仏は当にこの意を知るべし」等。勧持・安楽等これを見るべし。迹門かくのごとし。
 本門をもってこれを論ずれば、㊽一向に末法の初めをもって正機となす。いわゆる、一往これを見る時は、久種をもって下種となし、大通・前四味・迹門を熟となして、本門に至って等・妙に登らしむ。㊾再往これを見れば、迹門には似ず、本門は序・正・流通ともに末法の始めをもって詮となす。
 ㊿在世の本門と末法の初めは一同に純円なり。ただし、彼は脱、これは種なり。彼は一品二半、これはただ題目の五字なり
 問うて曰わく、その証文いかん。
 答えて云わく、涌出品に云わく「その時、他方の国土の諸の来れる菩薩摩訶薩の八恒河沙の数に過ぎたるは、大衆の中において起立し、合掌し礼を作して、仏に白して言さく『世尊よ。もし我らに仏滅して後において、娑婆世界に在って、勤加精進して、この経典を護持・読誦・書写・供養せんことを聴したまわば、当にこの土において広くこれを説きたてまつるべし』。その時、仏は諸の菩薩摩訶薩衆に告げたまわく「◉『止みね。善男子よ。汝等がこの経を護持せんことを須いじ』と」等云々。
 法師より已下の五品の経文、前後水火なり。
宝塔品の末に云わく「大音声をもって、あまねく四衆に

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告げたまわく『⓫誰か能くこの娑婆国土において、広く妙法華経を説かん』と」等云々。たとい教主一仏たりといえども、これを奨勧したまわば、薬王等の大菩薩、梵帝・日月・四天等は重んずべきのところに、多宝仏・十方の諸仏、客仏となってこれを諫暁したもう。諸の菩薩等は、この慇懃の付嘱を聞いて「我は身命を愛せず」の誓言を立つ。これらはひとえに仏意に叶わんがためなり。しかるに、須臾の間に仏語相違して、過八恒沙のこの土の弘経を制止したもう。進退これ谷まれり。凡智には及ばず。
 天台智者大師、前三後三の六釈を作ってこれを会す。詮ずるところ、迹化・他方の大菩薩等に我が内証の寿量品をもって授与すべからず。
末法の初めは謗法の国にして悪機なるが故にこれを止め、地涌千界の大菩薩を召して、寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字をもって閻浮の衆生に授与せしめたもうなり。また迹化の大衆は釈尊初発心の弟子にあらず等の故なり。

天台大師云わく「これ我が弟子、応に我が法を弘むべし」。
妙楽云わく「子、父の法を弘む。世界の益有り」。
輔正記に云わく「法これ久成の法なるをもっての故に、久成の人に付す」等云々。
 また弥勒菩薩疑請して云わく、経に云わく「我らは、また『仏の宜しきに随って説きたもうところ、仏の出だしたもうところの言はいまだかつて虚妄ならず。仏は、知ろしめすところをば、みな通達す』と信ずといえども、しかも諸の新発意の菩薩は、仏滅して後において、もしこの語を聞かば、あるいは信受せずして、法を破する罪業の因縁を起こさん。しかり、世尊よ。願わくは、ために解説して、我らが疑いを除きたまえ。および未来世の諸の善男子は、このことを聞き已わりなば、また疑いを生ぜじ」等云々。文の意は、寿量の法門は滅後のためにこれを請うなり。


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 ⓬寿量品に云わく「あるいは本心を失えるもの、あるいは失わざる者あり乃至心を失わざる者は、この⓭良薬の色・香ともに好きを見て、即便ちこれを服するに、病はことごとく除こり癒えぬ」等云々。久遠下種・大通結縁、乃至前四味・迹門等の一切の菩薩・二乗・人天等の本門において得道するものこれなり。
経に云わく「余の心を失える者は、その父の来れるを見て、また歓喜し問訊して、病を治せんことを求索むといえども、しかもその薬を与うれども、あえて服せず。所以はいかん。毒気は深く入って、本心を失えるが故に、この好き色・香ある薬において、しかも美からずと謂えばなり乃至『我は今当に方便を設けて、この薬を服せしむべし』乃至『この好き良薬を、今留めてここに在く。汝は取って服すべし。差えじと憂うることなかれ』。この教えを作し已わって、また他国に至り、⓮使いを遣わして還って告ぐ」等云々。

分別功徳品に云わく「⓯四依なり。四依に四類有り。小乗の四依は、多分は正法の前の五百年に出現す。大乗の四依は、多分は正法の後の五百年に出現す。三に迹門の四依は、多分は像法一千年、少分は末法の初めなり。四に本門の四依の地涌千界は、末法の始めに必ず出現すべし。今の「⓰使いを遣わして還って告ぐ」は地涌なり「この好き良薬」とは寿量品の肝要たる名・体・宗・用・教の南無妙法蓮華経これなり。この良薬をば仏なお迹化に授与したまわず。いかにいわんや他方をや。
 ⓱神力品に云わく「その時、千世界微塵等の菩薩摩訶薩の地より涌出せる者は、皆仏前において、一心に合掌して、尊顔を瞻仰して、仏に白して言さく『世尊よ。我らは仏滅して後、世尊の分身の在す

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ところの国土・滅度の処において、当に広くこの経を説くべし』と」等云々。天台云わく「ただ下方の発誓のみを見たり」等云々。道暹云わく「付嘱とは、この経をば、ただ下方踊出の菩薩のみに付す。何が故にしかる。法これ久成の法なるに由るが故に、久成の人に付す」等云々。夫れ、文殊師利菩薩は東方金色世界の不動仏の弟子、観音は西方無量寿仏の弟子、薬王菩薩は日月浄明徳仏の弟子、普賢菩薩は宝威仏の弟子なり。一往、釈尊の行化を扶けんがために娑婆世界に来入す。また爾前・迹門の菩薩なり。本法所持の人にあらざれば、末法の弘法に足らざるものか。
 ⓲経に云わく「その時、世尊は乃至一切の衆の前に、大神力を現じたもう。広長舌を出だして、上梵世に至らしむ乃至十方の世界の衆の宝樹の下、師子座の上の諸仏もまたかくのごとく、広長舌を出だしたもう」等云々。夫れ、顕密二道、一切の大・小乗経の中に、釈迦・諸仏並び坐し舌相梵天に至る文これ無し。阿弥陀経の広長舌相三千を覆うは有名無実なり。般若経の舌相三千、光を放って般若を説きしも全く証明にあらず。これは、皆、兼・帯の故に久遠を覆相するが故なり。
 かくのごとく十神力を現じて、地涌の菩薩に妙法の五字を嘱累して云わく、⓳経に云わく「その時、仏は上行等の菩薩大衆に告げたまわく『諸仏の神力は、かくのごとく無量無辺、不可思議なり。もし我この神力をもって、無量無辺百千万億阿僧祇劫において、嘱累のための故に、この経の功徳を説かんに、なお尽くすこと能わじ。要をもってこれを言わば、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事は、皆この経において宣示顕説す』と」等云々。天台云わく「『その時、仏は上行に告げたまわく』より下は、第三に結要付嘱なり」云々。

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伝教云わく ⓴「また神力品に云わく『要をもってこれを言わば、如来の一切の所有の法乃至宣示顕説す』〈已上、経文〉。明らかに知んぬ、果分の一切の所有の法、果分の一切の自在の神力、果分の一切の秘要の蔵、果分の一切の甚深の事は、皆法華において宣示顕説するなり」等云々。
 この十神力は、妙法蓮華経の五字をもって上行・安立行・浄行・無辺行等の四大菩薩に授与したもうなり。前の五神力は在世のため、後の五神力は滅後のためなり。しかりといえども、
再往これを論ずれば、一向に滅後のためなり。故に、次下の文に云わく「仏滅度して後に、能くこの経を持たんをもっての故に、諸仏は皆歓喜して、無量の神力を現じたもう」等云々。
 次下の嘱累品に云わく「その時、釈迦牟尼仏は法座より起って、大神力を現じたもう。右の手をもって、無量の菩薩摩訶薩の頂を摩でて乃至『今もって汝等に付嘱す』と」等云々。地涌の菩薩をもって頭となして、迹化・他方、乃至梵釈・四天等にこの経を嘱累したもう。「十方より来りたまえる諸の分身の仏をして、各本土に還らしめんとして乃至『多宝仏の塔は、還って故のごとくしたもうべし』と」等云々。
薬王品已下乃至涅槃経等は、地涌の菩薩去り了わって、迹化の衆、他方の菩薩等のために重ねてこれを付嘱したもう。捃拾遺嘱これなり。
 疑って云わく、正像二千年の間に地涌千界、閻浮提に出現してこの経を流通するや。
 答えて曰わく、しからず。
 驚いて云わく、法華経ならびに本門は、仏の滅後をもって本となして、まず地涌千界にこれを授与す。何ぞ正像に出現してこの経を弘通せざるや。

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 答えて云わく、宣べず。
 重ねて問うて云わく、いかん。
 答う。これを宣べず。
 また重ねて問う。いかん。
 答えて曰わく、これを宣ぶれば、一切世間の諸人、威音王仏の末法のごとし。また我が弟子の中にも、ほぼこれを説かば、皆誹謗をなすべし。黙止せんのみ。
 求めて云わく、説かずんば、汝、慳貪に堕せん。
 答えて曰わく、進退これ谷まれり。試みにほぼこれを説かん。
 ㉑法師品に云わく「いわんや滅度して後をや」。
    ㉒寿量品に云わく「今留めてここに在く」。
 ㉓分別功徳品に云わく「悪世末法の時」。
 ㉔薬王品に云わく「後の五百歳、閻浮提に広宣流布せん」。
 ㉕涅槃経に云わく「譬えば、七子あり、父母平等ならざるにあらざれども、しかも病者において心則ちひとえに重きがごとし」等云々。

 已前の明鏡をもって仏意を推知するに、仏の世に出ずるは霊山八年の諸人のためにあらず、正像末の人のためなり。また正像二千年の人のためにあらず、末法の始め予がごとき者のためなり。「しかも病者において」と云うは、滅後の法華経誹謗の者を指すなり。㉖「今留めてここに在く」とは、「この好き色・香ある薬において、しかも美からずと謂う」の者を指すなり。
 地涌千界正像に出でざることは、正法一千年の間は小乗・権大乗なり。機・時共にこれ無く、四依

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の大士、小・権をもって縁となして、在世の下種これを脱せしむ。謗多くして熟益を破るべきが故にこれを説かず。
 例せば、在世の前四味の機根のごとし。像法の中・末に、観音・薬王、南岳・天台等と示現し出現して、迹門をもって面となし本門をもって裏となして、百界千如・一念三千その義を尽くせり。㉗ただ理具のみを論じて、事行の南無妙法蓮華経の五字ならびに本門の本尊、いまだ広くこれを行わず。詮ずるところ、㉘円機有って円時無きが故なり。
 ㉙今、末法の初め、小をもって大を打ち、権をもって実を破し、東西共にこれを失い、天地顚倒せり。迹化の四依は隠れて現前せず。諸天その国を棄ててこれを守護せず。この時、地涌の菩薩始めて世に出現し、ただ妙法蓮華経の五字のみをもって幼稚に服せしむ。「謗に因って悪に堕つれば、必ず因って益を得」とは、これなり。我が弟子、これを惟え。地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子なり。寂滅道場にも来らず、双林最後にも訪わず。不孝の失これ有り。迹門の十四品にも来らず、本門の六品には座を立つ。ただ八品の間にのみ来還せり。かくのごとき高貴の大菩薩、三仏に約束してこれを受持す。末法の初めに出でたまわざるべきか。当に知るべし、㉚この四菩薩、折伏を現ずる時は賢王と成って愚王を誡責し、摂受を行ずる時は僧と成って正法を弘持す。
 問うて曰わく、仏の記文はいかん。
 答えて曰わく、㉛「後の五百歳、閻浮提に広宣流布せん」と。天台大師、記して云わく ㉜「後の五百歳、遠く妙道に沾わん」。
妙楽、記して云わく㉝「末法の初め、冥利無きにあらず」。
伝教大師云わく㉞「正像やや過ぎ已わって、末法はなはだ近きに有り」等云々。
「末法はなはだ近きに有り」の釈は、我が時

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は正しき時にあらずという意なり。
伝教大師、日本にして末法の始めを記して云わく ㉟「代を語れば像の終わり末の初め、地を尋ぬれば唐の東・羯の西、人を原ぬれば則ち五濁の生・闘諍の時なり。経に云わく㊱『なお怨嫉多し。いわんや滅度して後をや』。この言、良に以有るなり」。
 ㊲この釈に「闘諍の時」云々。今の自界叛逆・西海侵逼の二難を指すなり。この時、地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士となす一閻浮提第一の本尊この国に立つべし
。月支・震旦にいまだこの本尊有さず。日本国の上宮、四天王寺を建立して、いまだ時来らざれば阿弥陀・他方をもって本尊となす。聖武天皇、東大寺を建立す。華厳経の教主なり。いまだ法華経の実義を顕さず。伝教大師ほぼ法華経の実義を顕示す。しかりといえども、時いまだ来らざるの故に、東方の鵝王を建立して本門の四菩薩を顕さず。詮ずるところ、地涌千界のためにこれを譲り与えたもう故なり。この菩薩、仏勅を蒙って近く大地の下に在り。正像にいまだ出現せず、末法にもまた出で来りたまわずんば、大妄語の大士なり。三仏の未来記もまた泡沫に同じ。
 ㊳これをもってこれを惟うに、正像に無き大地震・大彗星等出来す。これらは金翅鳥・修羅・竜神等の動変にあらず。ひとえに四大菩薩出現せしむべき先兆なるか。
天台云わく「雨の猛きを見て竜の大なるを知り、華の盛んなるを見て池の深きを知る」等云々。
妙楽云わく「智人は起を知り、蛇は自ら蛇を識る」等云々。㊴天晴れぬれば地明らかなり。法華を識る者は世法を得べきか。

 ㊵一念三千を識らざる者には、仏、大慈悲を起こし、五字の内にこの珠を裹み、末代幼稚の頸に懸けしめたもう。四大菩薩のこの人を守護したまわんこと、太公・周公の文王を摂扶し、四皓が恵帝に侍

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奉せしに異ならざるものなり。

  文永十年太歳癸酉卯月二十五日    日蓮これを註す。