「観心本尊抄」第1章 2024年度「青年部教学試験1級」研鑽のポイントメモ

「止観」とは
瞑想の修行で揺れ動く心を止め一つに定める「止」
それによって現れた智慧によって対象をありのままに見る「観」のこと。

▼①第五巻のはじめの内容から
凡夫が止観を実践する際、己心を対象とすべきであることを示し、己心を感ずる「観心」の修行を明かす

一念三千の展開について
「三千世間」という場合と「三千如是」という場合あり。

要するに、
ひとつの心・一界に十界がそなわり、十界互具で百界、十如是を掛けて千如是、そこに三世間を掛けて三千世間とする

※前述の「世間」では国土世間は非情であり、後述の如是では「如是」の千如是(十界互具かける十如是)を中心に有情だからという理由だろうか。
(→第4章にあり)


この章のポイント(内容は押さえよう)
「この三千、一念の心に在り。もし心無くんば巳みなん。介爾も心有らば、即ち三千を具す」
翻訳: もし心がなければそれで終わりであるが、たとえわずかでも心があるなら、そこに三千種の世間がそなわるのである。

 観心本尊抄 第一章「摩訶止観」第五巻の文から

★ここで、②「三千世間」という場合と「三千如是」という場合があるといっている点について、分析的にいうと「三千如是」は十界互具→三世間→十如是とし最後に如是について説明しているからである。
これに対して、「三千世間」は、十界互具→三十世間(十如是に三世間がある)の順④結論を示し三千世間となり、両者で一念三千の展開の仕方が違っている。

結論とは→三世間のうち国土世間は草木国土と呼ばれ非情だが、非情の国土世間の三世間を最後にし結論として、十如是と三世間で三十世間だから有情ということ

第一章のここに掲げられた文は、まとめて結論を示す後者である。


[若おばちゃまより]
ここの章からの「わずかでも心があれば、~」は、わずかな一念によってでも大宇宙に遍満する生命に貫かれた南無妙法蓮華経・大御本尊に通ずることは疑いない。と、大感動し拝しました。
一念三千を解説するのに、数で説明するより、胸のつっかえが、取れたように感じます。