コンボイは考え事の種

さて、今回のコンボイは、オリメンさんが卒業前に、若手に素敵な言葉をたくさん残していくお話でした。

ゴドーを待ちながらをテーマに、待つのが人生だ、というセリフ。

「ゴドーを待ちながら」を「朝日のような夕日をつれて」で知った私は、まだ全編を舞台で見たわけではないので知識は浅はかですが、

「待つだけの芝居」であるこの物語が、物語として成り立つこと自体が「待つのが人生」であることを象徴しているのではないかと、今ふと思います。

待つ人がいれば、向かう人がいて、どちらの時間も平等に流れている。そこには優劣はなく、どちらも人生で、どちらも主人公。コンボイってのはそういうことだ。

コンボイのワンラインの意味を私はとてもとても尊いと思っている。そう見せているのであって、本当は役者それぞれに葛藤があるのだろうけれど、それでもなおワンラインでいることに、コンボイが、ねずみさんが、あえて意味を持たせていると思う。

ただの横並びではなく、個々の人生を抱えて、それぞれ歩んでいるその先に歩幅を合わせる今がある。のだ。歩いて来た道の長さも様子も違うのに、今は一人一人が重要な船員として、同じ船に乗っているのだ。

どんな劇でも最後は一列でカーテンコールを迎えるけれど、それとも少し違う。一歩勇気を出して踏み込んだ、一本の線で結ばれている。

ジュリちゃんねるでジュリさんがみんなに聞いていた「なぜここに?」という質問。これだけさまざまな人生を歩んだメンバーが、それぞれ、目指したいと思える場所がコンボイ。そして簡単に入れるわけでも続けられるわけでもない。揃いも揃ってみんなが「特別だ」という。コンボイを見ると、観客の私たちにも不思議とその意味がわかる。

もうこれは言葉で簡単に表せるものではない。コンボイを得たものだけがわかる。

話は戻って、「待つ」ということ。

「待つ」と言う行為は立ち止まっているように見えるけれど、待つ間も時間は流れている。人生の歩みは、時間の進みは止められない。有限の時間の中で「待つ」を選択すること。「待つ」が立ち止まることではないこと。

自分や他人を信じて、生き続けること、進み続けることで、やってくるチャンスを待つ。時には、待つというのは、「我慢する」にも近いのかな?

飛べないカラスがどこにいるの、飛んで、空の高さを知ればいい。

例えば待った先で向かっていた人に出会えなかったとしても、待ったことは無駄にならない。無駄にしないで生きるんだ。

待った時間も自分の大切な時間だったと踏みしめる。それが空の高さを知ることだ。知った分だけ進んでいる。

ああ、なんだか考えれば考えるほど思考が飛躍してしまうし、言葉が散乱してしまう。台本をちゃんと読んでみたい。もっともっと、深いところまで知りたい。記憶が薄れていくのが惜しい。

でも、こうして、考えごとの種になるのも、コンボイなのかな?

この記事は散らかりすぎた。あげていいものか迷いながら、一度公開してみる。

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