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不自由な中での思考力はきっと強い


天気が良いなと思って、カメラを待ちだして出掛けていても、何だかイマイチ自分の中で撮りたいって意欲が湧かなくて、数枚ほどしか撮らないことがよくある。

自分の記憶の中だけで納得しちゃうってことなのかもしれない。

先日、朝から雨で横浜で少し用事を済ませてから、師匠ところへ稽古に行き、夜は演奏の仕事という1日があった。

傘を持ち、背中には三味線。着替えの入っているショルダーバッグを襷掛けして、それはそれは不恰好な姿になった。
師匠の稽古場へ向かう途中、まだ時間上がると思い、二ヶ領用水が流れる小道を歩いてみようと、小雨な中。不恰好なスタイルのまま歩いていた。

雨って、ある意味非日常的な感じがして、ありがちな花でも水滴の粒がついてるだけで何か特別になる感じがして、傘をさして、背中に重い三味線を背負い、コンデジの設定は何だかよくわからないまま撮ってた。

不自由な方が、思考は働くのではないか?

片手でしか操作できないという気持ちが、撮れればラッキーな部分も確かにありつつも、シャッターを押すまでの時間がいつもより早くて、そして思った通りに撮れているような気もする。そうあくまでも気のせいなのだけど。

仕事の中での制限も、それならどうしたらうまく行くのか思考を張り巡らせると思うし、その結果がいい方向に運ぶこともあるし、その記憶は確実に残る。
そして普段、自分が何の気なしに過ごしているということにも気づかさせてくれるのではないかとも。

とかく調べれば何でも検索して答えが出る。
うまく文章を書きたければAIで心の中で舌を出しつつ仕上げることは簡単だ。

けれど、使うことを禁止したら?

たまには何も持たず、ちょっとした不自由で、別のことを探すのも悪くはないかもしれない。
退化する何かというのも感じられるかもしれないな。

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