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無知。初体験。忘れる

 先日、スタジオジブリ鈴木敏夫さんの著書『禅とジブリ』を読んだ。

 僕自身この本を手にとったのは、ジブリに興味があるというより、禅について知りたかったからだ。鈴木さんのことも当然認知はしていたが、語れるほど詳しいわけではなかった。ところが本を読みはじめるとページをめくる手は止まらなくなり、進めば進むほど鈴木さんという人物に魅了されていっている僕がいることに気づいた。

「なんて人間味のある人なんだ」

 少しずつ読んでいこうと思っていた本は、数時間で読み終えてしまった。風呂に入りながら読んでいたため、途中何度も冷たくならないよう湯を足した。

 ジブリ作品に関しては、おそらく見てない作品のほうが多いと思う。ちなみに宮崎駿さんの作品でいちばん好きなのは、ジブリ制作ではないが『ルパン三世 カリオストロの城』だ。

 老若男女問わず、日本だけでなく世界中に多くのファンを持つジブリ作品を生み出してきたのは、宮崎さん高畑さんの存在はさることながら、鈴木さんの手腕があってのことだろう。いわゆるプロデューサーという立場で、監督の手がけた作品をお客に届ける役割の鈴木さん。ジブリ作品を世界に届ける立場というだけでも、僕自身、想像しただけで計り知れないプレッシャーだろうと思う。だが本を読んでみると、「こんな性格の人が本当にスタジオジブリの一翼を担ってるのか」と疑いたくなるほど、良い意味であっけらかんとしている。それこそまさに鈴木さんの生き方は、禅につながると思った。

 昨年の僕は、あるひとつのことを念頭に置きながら日々生活していた。それは、自分は何も知らないということ。無知の知だ。

 大学院の修士課程まで進んだ僕は、博士課程には行かず一般企業に就職する気でいた。現に内定も貰っていたうえに、内定者としてすでに働きだしてもいた。一方で僕は、大学院に進んでから子供に関わるアルバイトを始め、そちらも卒業まで続ける気でいた。すると不思議なことに、卒業いっぱいで辞めるつもりでいた子供に関わる仕事を続けていきたくなってしまったのだ。結局僕は卒業間際でシフトチェンジし、アルバイトしていた会社とは別に、ボランティアでよく伺っていた教育や福祉の事業に携わっている会社に入社した。新卒という肩書きでもなければ、給与も内定を貰った会社より低かったが、僕にとってはどうでもいいことだった。故に再スタートという心持ちで、自分は何も知らないんだと常に言い聞かせながら過ごしていた。

 そしてこの本を手にとった僕は、作中で書かれている禅の思想が、昨年意識していた価値観と繋がる気がした。例えば、鈴木さんと宮崎さんは新作に臨むまえの口癖があるという。

僕と宮さんに共通するのが、何でも忘れちゃうこと。努力してそうするわけではないけど、本当に忘れちゃうんですよ。あれだけ映画を作ってきた人が、新しい映画の制作に入るときの口癖があるんです。「作り方忘れちゃった」って。(作中より)

 忘れる。僕はこの本に出会うまで、忘れることは、よくないことだと捉えていた。しかし、忘れるというのは、昨年の生活で大切にしていた「無知の知」に、近い言葉かもしれないと思った。さらに鈴木さんと対談していた僧侶の方は、次のように述べている。

常に初めて体験することのように感じながら生きていく、それが禅の理想とする生き方なのですが、実際には難しい。宮崎監督は、それを地でいってらっしゃるんですね。禅が目指すのは、禅だけが至れる場所ではなく、それぞれほかの道からでも行ける場所。禅はひとつの手段でしかないので。(作中より)

 初体験。それは限りなく個人的なものであり、歳をとればとるほど減っていくとされている。だが、果たしてそうだろうか。僕はこの本を読みながら、自分自身の状態次第で、似たような経験であろうと、何度でも初体験と同じ感覚を得れるかもしれないと考えた。それが「忘れる」ということかもしれない。

 では、忘れるとは何か? 僕は、忘れるとは、ひとつの物事に囚われないことだと今現在考えている。1月1日のnote『感情の波を読み解く』でも触れたが、なんでも頭ごなしに目を背け、食わず嫌いするのでなく、一度感じてしまったものは受け入れて味わう。そして、手放す。宮崎さんや鈴木さんは、ひたすらこのサイクルを自然と行えていたからこそ、あれほど優れた作品を世に送り出せたのではないかと思う。

 無知の知は、これから先も大切にしていきたい価値観として僕のなかで考えている。そして『禅とジブリ』を手にした僕は、無知の知を以下のように意味づけしてみた。

「無知の知とは、常に初体験のような実感を伴えるよう忘れ続けている状態」

 言葉だけでみると、わりと簡単なように思える。それでもいまの僕は、日頃から意識してなければ、無知の知を忘れてしまう。そう、唯一忘れてはならないことがあるとすれば、自分は何も知らないということ、無知の知……、かもしれない。

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