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生きる哀しみとは

 2022年、最初に手にとった本は、瀬戸内寂聴さんの『花芯』だった。

 本作は、親の決めた許嫁と結婚した女性が、自らの本能に抗えず、とある男と恋に落に落ちていく物語だ。ヒロイン園子の複雑な心境を緻密に赤裸々に語ったこの作品は、「新潮同人雑誌賞」を受賞。ところが「子宮」という言葉が作中で多用されることから、当時、瀬戸内晴美として執筆した著者は「子宮作家」と侮蔑され、その後およそ5年ものあいだ文学雑誌から干されることになる。

 先月は宮本輝の『錦繍』を読み、そして今回の『花芯』。二冊を照らし合わせると、共通する要素があることに気づく。例えば、両方とも話の展開の術として「不倫」が用いられている。またどちらも読みながら、「哀愁」といった感情が、僕自身の胸をひしめいていた。そして、SNSなどで読んだ人の感想を見たりして、僕は次のような問をたててみた。

 生きる哀しみとはなにか?

 ポイントは「悲しみ」でなく「哀しみ」と表した点である。これは先程述べた「哀愁」という感情にも紐づけることができる。コルクの佐渡島さんも『錦繍』を読み、「いまの時代「哀愁」というものを感じづらくなっている」といっていた。

 僕は早速「悲しみ」と「哀しみ」の違いについて調べてみた。すると『臨済宗大本山 円覚寺』のホームページに、両者の語源について記されていた。

 まず「悲」を紐解くと、「非」には羽が左右反対に開いたあり様が込められ、両方に割れるという意味があるらしい。それが「心」と重なり、胸が裂けるような切ない感じが、「悲しみ」だという。

 一方「哀」を紐解くと、「口」と「衣」で成り立っているこの字は、「口」を「衣」で上下から挟んでいるそうだ。「衣」には包み隠すという意味があり、想いを胸中に抑え、口を隠して悲嘆に暮れる様子を表すのだという。

 となると、「悲しみ」とはなんだろう......、大切な何かを失った感覚に近いだろうか。これまた先月読んだ『感情は、すぐに脳をジャックする』では、「悲しみ」は、「無いこと」に注意が向くことと書かれてあった。

 最近では『劇場版 呪術廻戦 0』を観たのだが、この映画にはわかりやすく「悲しみ」が含まれていた。主人公の乙骨憂太が幼少期に恋心を抱いていた祈本里香の呪いを解くため奮闘する本作は、里香が交通事故で命を落とす場面が、憂太に現実ではありえない能力を持たせる原点となっている。この要素は、先程述べた「悲しみ」の定義にもあてはまる。一方、それとは別の「哀しみ」の要素は、映画からあまり感じられなかった。

 『花芯』では、登場人物の次のような台詞で、「哀しみ」が表現される場面がある。

越智がわたくしのところに居てくれるのは、もうあわれみだけなんですよ(作中より)

 本作には越智という名の色男が出てくる。ヒロイン園子も越智の魅力に我を忘れ夢中になる。しかし、それは園子だけでない。当然、他にも越智に恋する女性はおり、そのひとりが中年の北林未亡人である。作中後半、園子と越智の関係に嫉妬心を燃やした北林未亡人は、京都の住まいから東京にいる園子のもとまでわざわざ会いにくる。だが園子との会話のなかで、越智が私のところに居てくれるのは「哀れみ」にすぎない、と本音を漏らすのだ。だが、その「哀れみ」を抱いてるのは越智だけでなかった。園子の一人称視点で、次のような語りが入る。

私は、老いの恋の口説など、聞かしてほしくもなかった。けれど未亡人が泣くように頼むと、まるで越智の身代りになってやらねばならないような錯覚がおきる。私は越智の抵抗のなさや、弱さまで真似しなければならない気がしてくるのだった(作中より)

 北林未亡人は周囲の人物から「哀れみ」を抱かせる存在として、物語のなかでスポットライトをあてられている。この園子と北林未亡人との場面から、僕が問としてもたてた「生きる哀しみ」を感じとることができた。

 僕らは生まれたと同時に死ぬことがわかっている。また、ひとりでは生きていけない。それはいまの社会の仕組みがそうさせているともいえるが、感情的にひとりで生きていけないように構成されてもいる。ひとりでいるときに、ふと「あの人に会いたい」と思う。二人以上でいるときも、その場にいない誰かを思い出し「会いたい」と考える。そして、一般的な「会いたい」という感情は、肉体的な距離感を意味する。会話ができる距離、手を繋げる距離。逆に、相手が視覚的に見えなければ、それは「会ってない」「一緒にいない」こととされる。

 では仮に、そんなことはあり得ないが、僕らがこの世に誕生してから、いわゆる新生児のときから、人間と接点を持たずに成長し続けたとして、その場合はどうなるだろうか?

 小学生の頃、国語の授業でオオカミに育てられた子どもの話を読んだ記憶がある。いまではこの話は、いくらか創作も含まれているなど指摘されているが、当時の僕は「生き物は生き物である限り、肉体的に接点をもち、行動を共にしたいものなんだなぁ」的なニュアンスのことを考えていた。

 それはおそらく、人間が人間の体内から誕生することに起因するかもしれない。意志といったものとは無縁に、ある一定の条件が揃えば、人間は人間のなかに宿る。そして、人間の手により世界へと取り出される。だから僕らは、孤独という状態を受け入れるのが難しいのかもしれない。

 ここまで思考を巡らせてみて、最初にたてた問に戻ってみると、生きる哀しみとは、矛盾を抱えることかもしれないと思った。

 僕は幼少期の頃から、人は、つまり自分は、遅かれ早かれ肉体的に死を迎えることを知っていた。毎日サッカーボールを蹴りながら、友達の家でゲームをしながらも、その一点の黒い滲みはふとした瞬間に、僕の前に顔を出す。やがて時間や経験と共に、黒い滲みはじんわり広がりだした。例えば、学校には卒業という別れが事前に設計されている。どうして出会いの時点で、数年先の別れが設計されているのか、僕は不思議でならなかった。だっていつか死ぬんだから、自分たちでわざわざ設計しなくてもよかろうに。そう考えていた。

 出会いと別れ。再会と再別。いま27歳の僕は、久しぶりに学生時代の友人と再会したりすると、喜びよりも、また2時間後には別れが訪れるのかと、そんなえも言われぬ感情をよく味わう。「このまま死ぬまで何もせず一緒にいよう」。もしこんな思いがあったとしても、それは口にした時点で、ただの台詞としてどこかしらへ消えていってしまう。

 そんな自分なりの矛盾を受け入れ、スルメを噛み続けるように矛盾を味わい尽くしていきたい。そんな今日この頃だ。

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