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自由意志について

『未来は決まっており、自分の意志など存在しない。』を読み終えた。本作のまとめでは、次のようなことが書かれていた。

「意識とは情報であり、生命とはその情報を増やすために配置された「何がしか」(存在)である」(作中より)


 加えて自由意志についても書かれている。

「我々は扱える情報量の多さに応じて、自由意志の錯覚を強く与えられているようだ」(作中より)


 僕が自由意志という言葉を意識的に考えるようになったのは、たしか20歳前後。カート・ヴォネガット・ジュニアの『タイタンの妖女』を読んでからだ。

 この物語の主軸となる人物たちは、自由意志というものを信じながら生きている。ところが彼らの人生は、一見なんの因果関係もないような出来事とつながり、運命づけられていた。そのことを知った彼らは、拒絶反応を示す。しかし物語の終わり、ヴォネガットは彼らのひとりにこんな言葉で死を迎えさせる。

「わたしを利用してくれてありがとう」


 この言葉が、物語全体を通してみたとき、とても美しく感じられるのだ。

 自分という存在は、あくまでただの肉体でしかなく、自由意志は幻想に過ぎない。一見ネガティブな印象だが、僕自身まったくそう思わない。

 今日の昼、地元の角川武蔵野ミュージアムに初めて足を運んだ。まず不思議に思ったのが、巨大な建造物にひとつも窓が設計されてないことだった。


 だがこのように思考をまとめていながら、あの外から全く中身がわからないブラックボックスみたいな建物は、肉体のメタファーではないだろうか? と考えた。


 建物の中にいざ入ってみると、高い壁にズラッと本が並べられていた。本は、情報ともいえる。となると、本をたくさん読み、好奇心が刺激され、成長したという自覚は、じつのところ錯覚で、その錯覚は肉体を持ちうる限り断ち切ることはできないというのを、あのブラックボックスのような建造物は表してるのかもしれないと。そのように考えてみた。 

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