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「ない」が「ある」

 子供の頃、僕は「なる」ことに夢中だった。保育園にいたときは仮面ライダーになりたくて、よく友達とごっこ遊びをしていた。小学校に上がるとサッカーを習いはじめ、プロサッカー選手になるのが夢となった。土日の練習だけでなく、平日も放課後は泥だらけになりながら、ひたすらボールを追いかける毎日。高校では陸上部で長距離走をはじめ、全国高校駅伝に出場できるくらいの選手になりたかった。

 結果僕は、仮面ライダーにも、プロサッカー選手にも、全国高校駅伝で走れるくらいの選手にも、そのどれにもなれなかった。かつての僕にとって「夢」とは、何者かに「なる」ことだった。だが高校に進学すると「なる」ことへの苦痛を感じはじめ、疑問を覚え、初めてその影の部分に意識が向いた。

 ちょうどその辺だろうか。文学の存在に気づいたのは。「存在に気づいた」というのは、それがすでに僕の身近にあったからだ。自宅には、物心つく前から本がたくさんあった。一人っ子の僕は、暇なときにそれらの本を手に取り、パラパラめくっては放りなげ、また別のをパラパラめくっては放りなげを繰り返していた。それらのほとんどが文学だった。そして、「なる」ことに苦痛を感じていた僕の心の隙間を埋めてくれたのは、ずっとそこにあった文学だった。

 アメリカの作家メルヴィルの『書記パートルビー』を読んだ。

 語り手の「私」は、法律事務所を営む年配の弁護士。彼はなかなか事務所の役に立つ人材が見つからず難儀している。そんなあるとき、ひとりの青ざめた顔の男が新しく入社する。名前はバートルビー。バートルビーは物静かでまじめ。大量の筆写をひとりで行い、「私」は貴重な人材を確保できたと喜んでいた。

 ところがある日、自らの仕事を手伝ってくれるよう頼んだ「私」に、バートルビーはこう応える。

「わたくしはしない方がいいと思います」

 それからというもの、ことあるごとにバートルビーは「しない方がいいと思います」というたったその一点張りで、仕事の依頼を拒み続ける。「私」はバートルビーにそう返される毎に驚き、イライラしてはバートルビーが拒絶する理由を考える。

 社内でもバートルビーに対する軽蔑の眼差しは、時間と共に増幅してゆく。とうとう「私」は最後通牒として、彼に解雇の旨を告げる。ところが翌日、事務所を訪れるとバートルビーはまだそこにいた。そして「私」に述べる。

「あなたの所から立ち去らない方がいいと思います」と、「ない」という言葉を穏やかに強調しながら、彼は答えました。
メルヴィル『書記バートルビー』

 昨年あたりからだろうか、僕自身、「いる/ある」について考えることが増えた。例えば、僕はいまの会社で何かを「する」や何者かに「なる」といった価値観をあまり持ってない。どちらかというと「いる」に重きを置いている気がする。それにいまの職場では、仕事をこなす以前に「いる」ことを肯定されてるように感じる。給与は同い年の平均値からすると低い、社会的な肩書きが確保されるわけでもない。それなのに、居心地が良い。ただ僕は会社で、バートルビーみたいにジッと動かず周囲の頼みやお願いを拒否するわけじゃない。割と業界的なくくりでは体力が必要とされ、長年人手不足と呼ばれて久しい。僕のいる会社もいわゆるベンチャー的立ち位置で、基本通年採用している。

 バートルビーのような立ち振る舞いは、子どもだろうが大人だろうが年齢関係なく、しようと思えばできるだろう。僕にも。他人からのお願いや頼み事に「しない方がいいと思います」と返せばいいだけだ。しかし言うは易く行うは難しで、バートルビーみたいな生き方は、おそらく社会的価値観から退けられる。「はやく」「する」ことが求められる時代、そんな立ち振る舞いをしようものなら、たぶん即刻クビ宣告に違いない。

 例えば学校で出される宿題。30人生徒がいたとして、うちひとりが「僕はしない方がいいと思います」と、理由も述べず淡々と宿題を拒否し続けたらどうなるだろう。おそらく教師がその生徒をありのまま受けいれるのは難しいのではないか。「先生のことが嫌いなのだろうか?」「家庭で大きな問題を抱えてるのかもしれない」「もしかしたら大病を患ってるのかも」など、あれやこれやと因果関係を考えるだろう。だが、宿題をやってこないその行動を、拒絶や拒否として捉えず、ひとつの「選択」として捉えたらどうなるか。

「宿題をしてくる子も、してこない子も、価値は同じです。「しない」があるから「する」があって、「する」があるから「しない」がある。どちらにも強弱はありません。だから先生は「しない」選択も受け入れます」

 こんな台詞めかしたことを義務教育の現場で語る先生を前にしたら、子供達はポカンと口を開けてしまうかもしれない。少年期の僕も、おそらくポカンとなるどころか、むしろ拒絶反応を示していただろう。なぜなら冒頭述べた通り、当時の僕は「なる」ことに夢中だったからだ。そう、夢中。夢の中にいた。そして、いまも。

 バートルビーを読んで思った、というより再認識させられたのは、僕の好きな文学や小説は、日頃意識を向けてない当たり前の価値観に、石を放り投げ、揺さぶりを起こさせてくれる作品ということだ。

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