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 誰しも一度は自分の声を録音して聞いたことがあるだろう。僕も子どもの頃、カセットテープに意味も無く吹き込んだその声を再生し「これが僕なのか……」と、不快とまでいかない違和感を覚えた。カラオケに何年も足を運んでない理由も、マイクを通して狭い空間に響き渡る自身の声を耳にするのが、何より耐え難いからだ。僕にとって極力避けて通りたい音は、自分の声と心臓の鼓動。心臓の鼓動は、手触りに近い。胸に掌を添えると刻まれている一定のリズム。あの瞬間ほど時間の儚さを感じるときはない。僕の内側から発せられるこのふたつの音に関して、平穏な日常においてなるべく客観的に感じずにいたい。

 濱口竜介監督の長編映画『ドライブ・マイ・カー』を鑑賞した。

 主人公の家福悠介は、舞台俳優かつ演出家。彼には音という名の妻がいる。二人は数年前に娘を病で亡くした。ある晩、家福が帰宅するとリビングで倒れている音を見つける。彼女はそのまま帰らぬ人となった。

 家族を突然失い孤独になった家福。そんなとき、地方の劇場でチェーホフ原作『ワーニャ叔父さん』を公演することになる。そして開演までの稽古期間中、家福に劇場から宿までのドライバーが付くこととなった。名は渡利みさき。最初はドライバーが付くことを拒んでいた家福だが、しだいに彼女に興味を抱いていく。

 本作『ドライブ・マイ・カー』はカンヌ国際映画祭で4冠に輝いたのち、先日、ハリウッドのアカデミー賞でも4部門にノミネートされた。僕自身、約3時間の上映時間が全く苦痛に感じなかった。素晴らしい作品だと思った。ところが見終わったあと、具体的な感想が言語化できなかった。というのも、素晴らしいことに間違いないのだが、それは「おもしろい」「楽しい」といった感情といくらか異なっていたからだ。

 作中前半で家福の妻である音は亡くなるが、その後も彼女は劇中に現れる。なぜなら、演出家かつ俳優を担う家福の台詞の覚え方は独特で、音に台詞を音読してもらいながらその声をカセットテープに録音し、運転中の車内で流して練習するからだ。つまり音は、肉体的に消滅した後も、彼女の過去の声だけが再生され続ける。ということは、音が亡くなる前と後で、家福の演出かつ出演する作品は同じという意味でもある。チェーホフ原作『ワーニャ叔父さん』だ。

 音が亡くなった後の『ワーニャ叔父さん』では、ソーニャという役どころを、言葉が話せず代わりに手話を日常的に使うユナが、オーディションで合格し演じることになった。

 肉体的に消滅したが、声だけが断片的に残った音。肉体はまだそこにあるが、言葉を乗せた声を発せられないユナ。片方は肉体から声だけが残り、片方は声から肉体だけが残った。声から肉体だけが残る? そんなことあり得るのだろうか……。音だけが残り、音だけが去る。というようなことが。

 人間は言葉のみ抽出してそこから絶対的な意味を理解するわけじゃない。相手が誰なのか。友人なのか、知人なのか、初対面なのか。また、誰であろうと、そこには表情が加わる。眉間の皺、目尻の上がり具合、口元。僕たちは、意識していようとなかろうと、一瞬一瞬に多くの情報を生みだし、同時に多くの情報を吸収する。言葉に付着した情報をだ。みかんの皮を剝くと、その下から新たに白くて無数の産毛が現れるように、それらを完全に取り除くことは不可能。むしろ産毛がなければみかんはみかんでない。

 そして僕らは、言葉を声に乗せる。そう、乗せるのだ。相手の耳に無事届き、脳へたどり着き、心まで落ちるように。しかしながら、乗せるが故に、言葉は違う駅に着きやすく、違う列車に乗車しやすい。本来の目的地までたどり着く声に乗れた言葉は、一体どれほどいるだろう。

 例えば、僕は仕事に行くと、開口一番「おはようございます」と、言葉を声に乗せる。その際、これまでなるべく相手に爽やかな印象を与えるよう意識的にトーンをあげていた。ということは、僕は、過去にどこかのタイミングで声の高音低音の差により、感情への何かしらの揺さぶりを生じさせた可能性がある。

 ほんとかどうか定かでないが、カラスは40種類以上の僕らでいう言葉を使い分けてるらしい。「カァ、カァ」というなかにも、いくつも種類があるのだという。だとしたら、僕ら人間が言葉を乗せる声自体にも、名前のない種類、名前のない声の領域があってもおかしくないだろう。

「おはよう」「ありがとう」「ごめんね」。今まで何度と口にしてきたこれらの言葉は、同じ意味で放ったとしても、声に乗せることで目に見えない色味を帯びる。そして、その色味はすべてが少しずつ異なっている。分けても分けても分けきれない。

 僕は、この見えない声の領域を描くことが物語には可能だと、今回『ドライブ・マイ・カー』を観て思った。また、映画鑑賞後、チェーホフ原作『ワーニャ伯父さん』も読んだのだが、そこでは「間」が巧みに描かれている。言い換えるなら、沈黙。音のない音、とも言えるかもしれない。そして、あえて無音も種類分けするなら、そこにはどのような地図が描けるのだろう?

 ここまで自分の考えを整理してきたが、未だ『ドライブ・マイ・カー』の明確な感想は浮かばない。それでも、改めて素晴らしい作品だと思う。


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