貢献欲について、あるいはアンチワーク哲学について

 アンチワーク哲学者ホモ・ネーモの出版社立ち上げプロジェクトに参加している。参加していると言ったって、何か出版社の社員になったり実際に戦力として実働しているわけではない。noteでdiscordサーバへのお誘い(公募)があって、面白そうだったのでちょっとからかいに行ってみるかと思って参加してみたところ、その熱意にアテられて自分もプロジェクトの一員になったような気がしてきているだけである。

 ホモ・ネーモのアンチワーク哲学は、デヴィッド・グレーバーやボブ・ブラックやルトガー・ブレグマンなどの流れを汲むと思われる、大雑把に言えばアナキズムに分類されるであろう思想である。以下に、私なりに噛み砕いて理解したところのアンチワーク哲学の大枠を紹介してみる(私なりの理解であるので、不正確な解釈も含まれるかもしれない。より正確には、ホモ・ネーモのnoteや著書に直接当たっていただくのがよい)。

 アンチワーク哲学は労働の根絶を目指す。単に「労働を根絶」というといかにも社会を転覆させかねない危険思想のようだが、アンチワーク哲学においては労働の定義からして特殊である。「労働とは、他者から強制される不愉快な営みである」。彼は金を支配のツールとしてとらえている。労働する者は自らの将来や家族の命を人質に取られて、不承不承、食っていくためにやむを得ず働く。被雇用者だけではない。経営者だって、言ってみれば株主に対して負債を抱えているわけで、資本主義社会の中で経営を回していくためには利潤を追求せざるを得ない。その結果、不必要な商品を過剰に生産したり、相手が不要な商品を何とかして売りつけるために誰も得しないブルシットな広告を打ったり、飛び込み営業をするなどして、全体としては何の役にも立たないゼロサム椅子取りゲームに励んで疲弊している(ゼロサムならまだいいほうで、もしかしたらマイナスかもしれん)。

 労働を根絶する手段として、アンチワーク哲学はユニバーサルベーシックインカム(長いので以下UBIと表記します)を提唱する。全員に一定金額のお金を配るという極めてシンプルな解決策である。健康で文化的な最低限度の生活を保障するだけの金額を配る。すると、人々は労働する必要がなくなる。これで労働が根絶できる。

 労働を根絶するとどうなるか。ここで、当然、複数のデメリットやリスクが指摘されうるだろう。誰も働かなくなったら我々が生きていくための財やサービスが供給されなくなるじゃないか・UBIの財源はどうするのか・インフレするのではないか。おおよそこのあたりの疑問や反論が提示されうる。まず財源については、お金を刷って配る。これに尽きる。次にインフレについては、需要が供給を上回ったときに生じるのであって、需要と供給が釣り合ってさえいればお金を刷って配ってもインフレは起きないか、起きても微々たるものだろうと彼は予測する。さて、そこで問題になるのが供給の側である。誰も労働しなくなったら財やサービスが供給されなくなるじゃないか。この反論に対して、アンチワーク哲学は、人間には本来、貢献欲が備わっているから大丈夫だ、と答える。人間の大多数は、本性的に、誰かの役に立ちたい・誰かに貢献したいものである、と考えるのである。

 このことを、ホモ・ネーモは複数の著作で、実に様々な具体例を挙げて説明している。ひとつ挙げるならば、次のようなものだ。孫のためにおせちを作って迎える祖母が、孫から「ぼくいらないよ。おばあちゃん全部食べていいよ」と言われたらどんなにガッカリすることか。祖母が利己主義者ならば自分の食べる取り分が増えて喜ぶはずである。ガッカリするのは孫に食べて欲しくて喜んで欲しかったからである。等々。では、孫のためにおせちを準備する祖母のはたらきは、アンチワーク哲学による定義に照らしたときに「労働」に該当するか。否。アンチワーク哲学において、労働の定義とは「他者から強制される不愉快な営み」であった。しかるに、この祖母は何事も強制されておらず、孫の喜ぶ顔を思い描きながら、鼻歌でも歌いながらウキウキ気分でおせちを作っていたに違いない。これは明らかに「労働」ではない。著書『労働なき世界』では、それを「戯れ」と呼んでいる。万人がこのようにウキウキ気分で戯れに人のために何かをしあうとき、それがアンチワーク哲学の目指す「労働なき世界」である。

 アンチワーク哲学の大雑把な紹介ここまで。

 私は当初、この貢献欲に依拠した相互貢献社会を思い描いたとき、そこに理想郷を見出した反面、ムラ社会の側面もチラ見えて、警戒した。田舎のおばあちゃんは、愛想よくニコニコと喜んでくれる孫のためには喜んでおせちを作ってくれるが、都会から移り住んできた・陰気で・太っていて・黒縁メガネをかけた・ミリタリー趣味の・挨拶できない・無愛想な引きこもり中年男性には何も作ってくれまい。かく言う私にも差別意識はある。愛想よく礼儀正しくお礼を言ってくれそうな育ちのよい老婦人になら喜んで電車内で席を譲るが、たとえ同程度に席を必要としている相手であっても、極端な話、朝まで飲み明かして女をべろべろに酔わせて法外な売掛金をふんだくってそうな・女殴ってそうなホストふうの男が、ガムをくっちゃくっちゃ噛みながら朝の電車内でヘベレケになって立っていたとして、そいつに席を譲ってやろうという気にはならないのだ。この差別意識はあってよいものだとは思っていないし、恥ずべき差別意識だと思っているが、現に在るものを無いですと言い張ることはできない。恥ずべきながら、私にも差別意識はあるのだ。そして、本当の弱者は助けたくなる姿をしていない。人々の貢献欲任せで世の中を回していこうとすると、取り残される人々が出てくるのではないか。今までの金銭を介した相互隷属社会のままならばどんなに無愛想だったりパワハラ体質な人間であっても金さえ払えばサービスが受けられたものが、貢献欲をアテにした相互貢献社会ではそうはいかなくなるのではないか。

 この疑問を、私はくだんのdiscordサーバでホモ・ネーモにぶつけてみたことがある。というか、discordサーバに参加しようと思った最初の動機がこれだったのだ。ホモ・ネーモからの回答は、実のところ、少々頼りないものではあった。「これは僕もなかなか根拠を揃えきれていないと自覚しています」。私はここに、多少の落胆と同時に、誠実さを感じた。ホモ・ネーモの対話篇に登場する哲学者は、しばしば、厳密な知識のなさや断定のできなさを素直に認める。それに近いものを本人の弁からも感じたのだった。その上で、彼は「この点を補強できる論点はあるに越したことはないことは間違いなく…なんかいいアイデアないものか…」「そして、こういう議論を、日本中に巻き起こしてみたい…」と語る。この時点で私はコロッと惚れちまったのかもしれない。仮に、彼が自説に強固な理論武装をしていて、「それはコレコレでハイ論破!」みたいに自信満々の回答を用意していたとしたら、ここまで入れ込んでいなかったかもしれない。

 しかし、貢献欲がそこまで全幅の信頼を寄せるに値しないのだとしたら、なぜ、そんな不確かなものに未来を賭けるのか。その答えは、現代社会がもう限界だという認識にある。アンチワーク哲学では仕事を「経済活動」と「政治活動」に大きく二分して考える。「経済活動」とは、人の役に立つ(娯楽も含めて、誰かを喜ばせたり、苦労を軽減したりすること)ための財やサービスを作り出すことを言う。他方、「政治活動」とは、金を集めてくるだけのゼロサムな活動を指す。他社の製品よりも自社の製品を買えと働きかけるなど活動が後者に当たるだろう。むろん、この区別は明確に線引きできるものではなくて、なだらかなグラデーションになっている。さて、前者のしごとは総じて給料が低く、後者のしごとは総じて給料が高い傾向にある。人々はこぞってゼロサムもしくはマイナスサムな政治活動の限られた椅子取りゲームに群がり、実際に人の役に立つエッセンシャルワークは慢性的に人手不足が続いている。大手広告代理企業には毎年多数のエントリーシートが送りつけられ、ギチギチの競争を勝ち抜いて入社した新人が過酷な社内競争に疲弊して精神を病んでいく。あるいはその手前の受験戦争で子供たちが病んでいく。狭い教室内に押し込められて受験に疲弊した子供たちの内圧がいじめを生み出して、運悪くターゲットになった子は逃げ場を失って自殺していく。

 ホモ・ネーモのnoteにも著作にも、端々に、現代の常識は狂っているという認識が表明されている。彼自身、やりたくもないブルシットな仕事で生計を立てていた時期があって、それで適応障害を発症したのだという。狂った実情をその目で数多く見てきたのだろう。彼のラディカルな観察眼からは、「なんとなくオトナの世界はそういうものだと思って諦めてたけど、言われてみればおかしいよな?」と気づかされることがたくさんある。常識だと思っていたものが実はおかしかったという現象を、彼は奴隷制や戦時体制になぞらえる。奴隷制に異を唱える人は当時多くなかったが、今では「あの時代の人はおかしかったな」となっている。戦時中に異を唱える人は少なかったが、今では「あの時代の人はおかしかったな」となっている。金のために(食っていくために・家族を養っていくために)やりたくもない誰の役にも立たない労働に疲弊している現代社会も、後から「おかしかったな」と思われる時代が来るようにすることは可能だ。この信念が、彼の革命精神を貫いている。

 discordサーバにて貢献欲にまつわる疑問をホモ・ネーモに投げかけてみたとき、彼は先述の少々頼りないながらも誠実な回答に続けて、次のように述べた。「自由なら何が起こるかわからないのは当たり前で、それでも誰かが支配されるよりはいい」「誰か一人でも鎖につながれるならば、私たちの誰も自由とは言えない」。ここに、アンチワーク哲学の根本的な動機が明確に表明されているように思う。ホモ・ネーモは、人々が嫌々ながらに労働させられる世の中ではなくて、おのおのが自由に判断して貢献する世の中をもたらそうとしているのだ。

 おそらく、UBIが実現して誰もが労働から解放され、互いに自由に貢献するアンチワーク哲学の理想が実現したとしたら、そこには様々な摩擦や軋轢が発生するだろう。先日友人にアンチワーク哲学を布教してみたところ、「夜中にコンビニが開いてないとかいうことももちろんありそうだけど、子供が熱出したときに医者が誰もやってないとか、そういうのがあると困るな」という指摘を受けた。まさにその通りだと思う。医者だって嫌になったら仕事を辞めていい。それがアンチワーク哲学の描く社会だ。あるいは、ニューヨークとかゴッサムシティみたいに、ゴミ収集業者が一斉に仕事を辞めて緊急事態宣言が発せられる日も来るかもしれない。工場の作業員が辞めちまって生活必需品が高騰することだって転売闇市が横行することだってあり得る。だが、人々は、自分たちに何が必要か、世のため人のために今自分が何をしようと思うのか、考えて行動する自由がある。金のため給料のために不承不承させられる労働なんかよりも、自分が必要と思うから・人々のためになると思うから進んでやろうと思う貢献は、ずっといいものを生み出せるに違いないのだ。