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今更、「片親パン」に引っかかる

もちろん、タイトルがすべてで、ここからの文は蛇足になることが間違いないのだが、うだうだと書いていく。

今朝急に、「片親パン」という言葉が頭の中を占拠した。
昨年だか、そのくらいにふわっと話題になった言葉なのだが、コンビニやスーパーなど、どこにでもある4,5個入りの丸いパンが、やかましいケースに縦に並べられたあれを指す言葉だ。貧乏くさいという意味で、最初の人間はこの言葉を使ったのだろう。だが、あまりにもそのナイフは大きすぎた。

この言葉を知ったものは、このパンを見るたび、頭の中をこのワードが横切る。運良く忘れることができても、視界にこのパンが入るとモヤっとしたものが心に現れるだろう。

私が知っている日本人は、周りより下回るということに、強い恐怖心を覚える。建前で自分及び、自分の家庭を卑下したとしても、本心では見下されることに怯えている。そして、見下すことで優越感を覚え、安堵する。ここで日本人と書いたのは、他国民を知らないからであって、日本落としをとにかくしたいからという訳ではない。

このように他者との優劣を比べる意識が強い中で、この言葉が生まれたのは必然なのかもしれない。他人を見下すにはちょうどいい材料だ。我々、少なくとも私は、赤の他人であれ見下すことができる。このパンを取っていれば、「片親パンを買っている他人」とレッテルを張れてしまう。

いつまでこのように他人と見比べて、自分を立たせるということを続けるのだろうか。ここまで考えて、ボーっとした。結論は上手く落とすことができない。ただこのワードは私の心に深めの傷を付けた。痛みではなく罪悪感をもたらした。自分に正直に生きるという言葉、私のには「他人を見下す」という行為が含まれていそうで出来そうもない、やりたくない。

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