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「自殺」か、「自死」か。

自分の意思で自分の人生を終わらせる行為を、一般的に「自殺」と呼びます。自分を「殺す」行為であり自分に対する殺人だから、「自殺」です。

「自殺」という用語法を避けて「自死」を用いるべき、という意見もあります。「殺す」行為は、他者に対して行った場合、殺人という犯罪になります。「自殺」という用語には、亡くなった方が犯罪行為を行ったことになるという意味が、自動的に含まれてしまうのかもしれません。

自殺は、犯罪なのでしょうか? 自殺を禁忌としてきた宗教は、キリスト教の大部分をはじめとして、数多く存在します。自殺を違法とする法体系を持つ国は多くありませんが、シンガポールでは自殺未遂は犯罪です。自殺を遂げてしまった場合は、既に亡くなっているのに罰してもしかたがない、と考えられているようです。

日本には、自殺・自殺未遂・自傷を処罰する法律はありませんが、自殺させることや自殺を助けることは、犯罪として刑罰の対象になります。集団イジメで生きづらくしておき、最後に誰かが「死ねばいいのに」と言い、それが引き金となってイジメ被害者が自殺した場合、「死ねばいいのに」と言った人は自殺教唆罪に問われる可能性があります。「死にたい」と言って入水したものの死にきれずにいる人の頭を押さえつけて水死させれば、その人は自殺幇助罪に問われる可能性があります。

とりあえず、現在の日本では、自殺は犯罪ではありません。

「自殺」または「自死」の事例に接する時、私が大切にしたいと思っているものの一つに、亡くなられた方の発した、あるいは発したかったであろうメッセージがあります。言い換えれば、亡くなられた方ご自身の声です。

遺書が残されていれば、読めば理解できるかもしれません。しかし、何らかの理由で遺書が残されていない場合もあります。御本人は死ぬことで頭がいっぱいで、遺書まで考えが及ばなかったのかもしれません。また、「遺書を残したつもりだったけれども、誤って捨ててしまっていた」という成り行きも考えられます。いずれにしても、生命ある存在として自然なはずの「明日も生きる」という可能性を、その方が自ら閉ざしたことに変わりはありません。

「自殺」あるいは「自死」の背景には、多くの場合、ご本人の何らかの苦境があります。健康で幸福で将来に何の不安もない人であっても、もしかすると突然、死にたくなったり、時には実際に死んでしまったりすることがあるのかもしれません。しかし、自殺の背景に多く見受けられるのは、病気や障害、社会的あるいは経済的な困難、疲弊や絶望です。

「自殺」あるいは「自死」が選ばれるとき、ご本人は何らかの意味で「生きづらい」状況にあり、心から「もう、生きられない」「これ以上生きたら、生き地獄」と思っていることでしょう。ただ「生きてほしい」と言うだけでは、ご本人は死んではいないものの、生きづらいままの生き地獄を生き続けることになります。しかし、「生きづらさ」をもたらすものを取り除くことができれば、「生き続けたい」という気持ちが自然に湧いてくる可能性は低くないと思われます。刃や、炎や、呼吸を止めるロープを向けるべき相手がいるとすれば、「生きづらさ」をもたらしている相手であるはずです。しかし、「生きづらさ」をもたらしている何者かの姿、言い換えれば「生きづらさ」の責任者は、明瞭であるとは限りません。むしろ、複数の要因が複雑に絡み合っていることが多く、責任ある存在を1つまたは少数に特定することは無理です。

「自殺」あるいは「自死」に踏み切らせる心情は、
「この生きづらさの責任を誰かに問いたいけれども、問える相手がいない。自分だけの責任ではないかもしれないけれども、自分にはいささかの選択の誤りと思われるものや自己責任がある。だから、しかたなく、自分に責任を問う」
というものなのかもしれません。少なくとも、自分が踏み切りそうだったときの脳内ストーリーは、このようなものでした。

そこまで明確な言葉にできない場合でも、「苦しいよ」「解放されたいよ」という思いは、心の中に満ちあふれていることでしょう。苦しみや束縛をもたらしている相手を変えることが出来ないのなら、自分がこの世から消えることで、その苦しみと束縛から自由になれるのかもしれません。ベストではないとしても、実際に選ぶことのできる唯一の選択肢がそれなのなら、「人生を終わらせるしかない」ということになります。

私は、「自殺」あるいは「自死」が愚かな選択であるとは思いません。少なくともご本人は、それまで積み重ねてきた人生と経験に照らして、「これがベスト」「これしか選びようがない」と判断したはずです。衝動的な行為に見えるとしても、最後の行為に踏み切る前には、「衝動」では済まない数多くの経緯があったはずです。

まずは「自殺」あるいは「自死」が実行されたということ自体に含まれたメッセージを、善悪を問わずに、そのまま受け止めたいと私は思います。その事実は、ご本人が文字通りに命を賭けて発した最後のメッセージです。音声として残っていないとしても、ご本人自身の最後の声です。

第三者は、あとから何でも言える”お気楽”な立場です。その立場から見れば、しばしば「何も死ななくても」ということになります。声の上げようが、生きる手立ての探し方が、憎いあんちくしょうに仕返しする方法が、見えない牢獄のようなしがらみから逃げ出す方法が、数多くあったはずです。でも、ご本人にとっては、「自殺」あるいは「自死」に代わる選択肢になりませんでした。殺したり傷つけたりするエネルギーは、他の誰にでもなく、自分自身に向かってしまいました。お気楽な第三者が、あとから何を言っても、亡くなったご本人のお役には立ちません。

さて、自分の人生を自分で終わらせる行為は、「自殺」と呼ぶべきなのでしょうか。それとも「自死」と呼ぶべきなのでしょうか。

私は迷いの末、「自殺」が適切なのではないかと思うようになりました。他者に対して行えば「殺人」となる行為を、自分自身に対して行っているからです。しかも自分が対象なら、日本では犯罪にはなりません。最後の主体的行為がまさに主体的であったことを示すためには、「殺す」という他動詞が適切でしょう。「死ぬ」という自動詞ではなく。

ちなみに「安楽死」という用語に対し、「『安楽殺』と呼ぶべき」という異論があります。異論の主は、橋本みさおさん。橋本さんは、30代の時に難病・ALSに罹患し、全身のほとんどを自分の意志で動かせなくなりました。しかし、自力で呼吸できなくなったら人工呼吸器を装着し、24時間介護を受けて生存・生活・コミュニケーションを確保し、活発に社会的活動を行っています。人工呼吸器などの装置や介護の人手があれば、どんなに重い障害があっても、施設の中ではなく、地域で楽しく生きて行けます。橋本さんは30年間以上にわたって、そのことを身をもって示し続けてきました。

しかし、呼吸器や介護が提供されない場合、橋本さんと同様の障害を持つ人々は実質的に生きて行けなくなり、「それなら、いっそ殺してくれ」ということになります。ALSの場合、呼吸器を装着する前に呼吸できなくなれば、自動的に窒息死します。患者や障害者をそういう成り行きに追い込めば、障害者福祉や介護のコストは、まったく合法的に削減できます。それにしても窒息死は苦しいはずですが、「安楽死」を認めれば、問題はなくなります。

だから、橋本さんは「安楽殺」と言うのです。自分が死にたいわけではなく、生きられるのなら生きたいのに実質的に殺されるのだとしたら、「自分が死ぬ」ではなく「自分が(何者かに)殺される」と言うべきです。私も、「安楽殺」に賛成です。

とはいえ今後も、私は「自殺」か「自死」かで揺れるでしょう。ご遺族が「自殺」という言葉を避けてほしいというご意向であったり、そういうご意向の存在が伺われる場合には、そのお気持ちに反してまで「自殺」にこだわりたいとは思いません。でも、そうすることで、今は声を聴くことのできないご本人のお気持ちに沿えない結果となったら?

……悩むことは、お気楽に生きている第三者に課せられた、せめてもの義務なのかもしれません。
だから、せめて悩みます。

ノンフィクション中心のフリーランスライターです。サポートは、取材・調査費用に充てさせていただきます。