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雑穢#1033

「タコが、出たんですよ」
 怪談の聞き取りをしている時に、そんなことを言われてどう反応すればいいのか戸惑いを禁じ得なかった。
「海にいる、足が八本の」
「ええ。八本の」
 なるほど。空に揚げる方ではないと。つまり海に棲む頭足類で、たこ焼きの具になる方のタコということだ。
「——伺いましょう」

 道雄さんが仕事から帰宅したのは午後十時を回っていた。仕事でミスが幾つか重なった結果の残業が響いている。
 夕飯も軽く食べてきたが、アルコールは入っていない。
 少し気持ちも沈んでいる。
 もう今夜は早く休もう。風呂も明日の朝にシャワーでいい。
 ワイシャツを脱いだ時に、襟首の汚れが気になったが、もう何も見なかったことにして布団に潜った。

 ——今、何時だ?
 不意に目が覚めた。まだ室内が暗いが、何時までかはわからない。カーテンが開けっぱなしの窓からは、外の駐車場の街灯の光がうっすら入ってきている。
 目が慣れてくると、窓に何か奇妙なものが張り付いているようなシルエットが見えた。
 何だろう。
 それはぐにょぐにょとした軟体で、幾本もの触手を備えていた。タコかイカ。ただ、イカよりもタコのように見えた。イカならもう少し形が整っているような気がした、それだけである。
 道雄さんが布団から見ていると、それは触手を鍵へと伸ばした。かちゃりと音がして、鍵が開いた。
 次は窓がずずっと音を立てて開き始めた。ほんの親指くらいの幅——二センチほど窓をずらすと、そのタコのようなものは、ゆっくりと外に出ていった。

「夢だと思ったんですよ。でも、電気をつけて確認したら、窓が開いてたんです」
 なるほど。
 その時、話を聞いている自分は、難しい表情を隠すことができないでいたように思う。
「タコの幽霊だって、その時は思ったんですよ」
 ——タコの幽霊。
 タコの幽霊とメモに書き記す。
「それで、この話には続きがありまして」
「ほう。それでその後タコがどうかされたんですか——」

 道雄さんのアパートに、三十代の男性が住んでいるという。ここでは彼の名を仮に貴史とする。
 貴史はある夜、アパートの前の駐車場に車を停めて、彼女と話をしていたらしい。
 本当は彼女を部屋にまで連れ込みたかったのだが、まだ微妙な時期なので、それはあえて避けたとのことだった。
 時間は既に日付が変わりそうになっていた。そろそろ送っていこうか、それとも部屋に上がるか誘ってみるか。
 そんな大事な瞬間に、フロントガラスに何かが降ってきた。
 突然の大きな音に驚いて、貴史はきゃあと声を上げた。彼女は何度か「何何? 今の何?」と繰り返した後で、ぎゃあと声を上げた。
 フロントガラスに何かが張り付いていた。
 先ほどの音の記憶から、水分を含んだモップのようなものだと思ったが、そのモップはぬたぬたと動いていた。
 フロントガラスの上で、触手を方々に伸ばした。
「タコ? これタコか!」
 貴史はそう言って、室内灯を点けた。その時、そのぐねぐねしたものと目が合ったという。
 それの黒目は、長方形をしていた。

「それ以来、貴史の車には、時々タコが出るそうです」
「今も出るんですか?」
「ええ。つい先日も、タコのせいで彼女に振られたって言ってましたから——」
 タコは既に半年以上にわたって、断続的に出現しているとのことである。

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