バスタブ


 「おかえり」の声が追いかけてくるのに生返事をして、荷物を置こうと扉を開けた。半開きのカーテン、床で三つ折りにしたままの敷布団、積み上げた本と、服。窓から吹いてくる風と、夜なのに確かに仄暗く照らされた部屋の中で、ここが自分の帰ってくる場所なのだと、そう思って、死にたくなった。

バスタブ

 しあわせ。だ。ぼくは。五体満足で、病気もしなくて、両親ときょうだいと、祖母は数年前に他界したけれど、祖父にも半年おきには会いに行く。小学も中学も無難に過ぎて、ともだちも数人いる。いじめも虐待も遠い世界のことのようで、来年には大学を受験する。しあわせ、を、言語化するのならば、たぶんきっとこれで充分だ。
 それなのにどうしてか泣いている。
 しにたいは、死にたいと同義ではない。一緒にしてはいけないと思う。世の中には、自分なんかよりもっと苦しい人が大勢いて、だからこんなことで苦しむ自分は、おかしい、と思う。きっと、しあわせになりたい、のほうが、近い。ネットでよく見る、立ち直った人のコメントなんかは、いつも似たり寄ったりだ。恋人ができた。家族に支えられて。人のつながりの大切さが。それはつまり、人に恵まれなかった人は、どうしようもないってことだろうか。恵まれない? 恵まれてない、わけじゃない。ぼくがおかしいだけで、たぶん周りの人はみんな、善良だ。異端はぼくで、恵まれていないのは、ぼくの周囲だ。
 腕を切る。衝動が最近、頻繁に起こる。リストカットは少なくとも、ぼくの中では「しにたい」とは同じじゃない。死ぬためにやっているのでも、死にたくてやっているのでもない。切り始めた頃なんて正直憶えていないけれど、手首に薄く残る跡を見るに、きっと恐る恐るだったのだろう。つらかったより、格好良さそうに憧れて始めた、のだと思う。当時の自分は厨二病に憧れていて、いや今でも抜けきれてはいないが、それでも漠然と傷痕が欲しかった。そんな気がする。リスカ、今は目立つので腕の内側にやっているから実質アームカット、は、ずっとその「格好良い」の延長で、だから「しにたい」とは関係ない。死にたいなら縦に切ってお湯に浸ける。深く抉りたいのならカミソリか、今はネットで簡単にメスでも手に入る。知っている。それでも、カッターナイフを愛していた。
 腕の関節から三分の一。袖はぎりぎり捲れる長さで、でも関節に近いほど皮膚が柔らかくなるから、切りづらい。刃先を押し当てても痛いから、潜れるお気に入りの音楽で耳を塞いで、何度かカッターを沈めていたら、その内痛みが麻痺してくる。押し当てながら横に引いて、いたいなあと、思いながら引く。だいたい三センチで揃った傷に合わせて止めて、浅いと、ぎゅうと押し出さないと血も出てこない。隠したくて同じとこばかりに引いたせいで、もう切るところがなくて、少し困る。それでもやめようとは思わないのだから、ほんとうにどうしようもないなあと、思う。
 薄い壁は、リビングで流れるテレビの音も、簡単に通す。人数にそぐわない部屋数は、プライバシーもへったくれもなくて、だから早くここを出て行きたい。受験は何月だっただろうか。そんなことも調べていないのに、大学なんて、通えるのだろうか。無理だと思う。と、言われる。自分でも思っている。それでもここが嫌だ。大学なんて体のいい口実だった。ここを逃げ出したいためだけの。失敗することに焦りは勿論あるけれど、たとえ落ちたとしても、ここだけは出て行きたかった。おかしい、馬鹿馬鹿しいのだ。今だって親に甘えて、貰えるものは享受しているくせに。わからない、そのへんを考えても、また無意味に泣くだけだから、産んだ親が悪い、と通り一遍の結論を張り付けて、見ない振りをしている。
 地獄と、この部屋を呼びたい、呼びたい、のだけれど、呼びたければ呼べばいいのだけれど、そう名前をつけることが、できない。地獄はありふれていて、小説にもドラマにもアニメにも漫画にもどこにでも、創作物の中に、ニュースの向こうの知らない家の中に、ありふれた地獄が収まっていて、知ったふりをしているのに、なにひとつ知らなかった。だからぼくは、この部屋を地獄だなんて、とうてい呼べない。絡まった思考を、解こうと思えば解けて、正論を理解して、息をして喋ることができても、じゃあ、この苦しみは、なんなのだろう。許されない。恵まれているくせに。恵まれているくせに、どうして、こんなにも、許してほしくて、そのくせ許す者を選びたがる。どんなに着飾っても劣等感を覚えるのに、クラスメイトを見下して、友人を選んで、二元論や差別や老害に唾を吐いて、嘘はなくて、当たり前のように嘘を吐く、ぼくは。生きやすいように生きたい、のに。
 免罪符がほしい。苦しまずに死にたい。許されたい。かみさまに。そんなひとに。かみさまを選ぶのはぼくなのに。いないのだ、所詮、人間に、かみさまなんて。まとまらない。どこにも進まないとわかって書いている。自分が、自分で、なかったら、よかったのに。見下している、世間一般の、馬鹿みたいな群衆みたいに、生きられたらよかった。しあわせになりようがない。わからない。どんなに恵まれても、しにたいと思うんじゃないかと、そう思うと、生きている価値がないと、思う。だって、不幸になりたがっているのは、ぼくだということになるのだから。そんなはずはない。しあわせになりたいのだ。でも、どう見たって、ぼくは、「しあわせ」と呼ばれるものを持っているのに。それを抱えたまま、捨てもしないまま、口を開けて餌を待つ鳥のように、誰もから見捨てられるその日まで、生きていなければならないのだと、そう思うと、絶望する。
 このひとりごともフィクションです、なんて、それで全部、全部、終わればいいのに。

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