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読み返すには恥ずかしい記事

私は恵まれている。

私が想像しているよりずっとずっと恵まれている。

何もかもに恵まれている。

そう思うのは自分の世界以外を知らないからかもしれないし、ただの傲慢かもしれない。

だけど、私の話を聞いてくれる人が存在する世界でありがとうと笑える事以上の幸せなんてあるだろうか。

理解しようとしてくれる人がいるのは素敵だ。

私達は同じ物語を読んでも、同じ映画を観ても、同じ音楽を聴いても、同じ景色の中にいても同じ事を感じない。

美しいと思う基準は様々だし、悩みの深さも違う。同じ言葉を話しても同じ意味を持たない。

共通認識がただそこにあるだけで、言葉を発した相手の気持ちと同期は出来ない。

昨日寝ていない人の眠いと、寝癖を直している人の眠いは違うし、私の持つ「母」という言葉の意味と他の誰かにとっての「母」はきっと違う。

それでも会話は成り立つし、意志の疎通が出来る。

そんな中でも、私の性格を知って、一緒に過ごした時間の中の思い出を通して、もっと深く会話しようとしてくれる人がいる。

わかろうとしてくれる人がいる。

なんて尊い事だろうと思う。

私に伝わるように言葉を選んでくれる人がいる、そんな気持ちが垣間見えたらもうどうしようもない。

ありがとう以上の感謝の気持ちを伝える術も言葉も私は知らないのに。グラッチェとか言えばいい?

名前を呼んでくれるだけでも嬉しいのに、どうしたって幸せすぎる。

あんまり嬉しい事があると誰かの幸せを削ってやしないかと不安になる。私と無理して会話している人がいたらもう今すぐにやめてほしい。

本当の意味でわかり合う必要なんてきっとなくて、私が伝えようとしている何かに耳を傾けて、見えないこの気持ちに目を凝らしてくれる人がいる事実の方がわかり合うことよりもっとずっと私を救ってくれる。

なによりも守ってくれている、何もかもから。

本当は嫌われているかも、だとかネガティブな妄想をしないわけじゃない。無理をさせてしまっているかも、ただただ相手の時間を奪っているだけかもしれないと思うともう今すぐにでも逃げ出したくなってしまうけどそんなこと思うのも失礼だと思う。

疑うくらいなら気持ちよく騙されてやろう。

まぁそれはちょっと大袈裟だけど。

たとえ演技でもそれって傷付けないためだと思うと素敵だなと思う。いや、自分を守るためかもしれないとか考えたらきりがないけど考えようによって疑うことも信じることもできるなら信じてたいじゃん。

馬鹿に見えても誰も傷付かないならピエロでいい。

なんだか私のネガティブさが顔を出してしまったけど、そうは思わずにいられないほど恵まれている。私の友人は理不尽なまでに優しい。

あまりに理不尽だから、たまに怖くなる。

とても優しい人たちだから、無理をしているのではと。

もしも傷付けていたらと思うと怖いけど、きっと私の友人は嫌なことは嫌と言ってくれる。

ここまで信頼出来る人に囲まれている事をいつか当たり前のように思ってしまう日が来るんだろうか。

もうすでに慣れはじめていたらどうしようと思う。

時間が経てば経つほど記憶は零れ落ちて、霞んでいってしまうのに、友人の尊さは増していく。

長い時間を一緒に過ごすことはとても難しい。

環境も気持ちも日々変わっていく中で、鳴り響く秒針の音の中で、変わらずにいることは難しい。

誰かと会うのはとても大変で、話すのには頭も時間も使うのに何年も変わらず私の友で居てくれる人があまりに多すぎる。

みんな大丈夫か、優し過ぎはしないか。どうした。

友人に限らずだ、今このブログを読んでくれている人がいる事もありがたい。

はじめましての方かもしれないし、前から知ってくれている方かもしれないけど、どちらにせよ私はとても嬉しい。

正直誰がどこまで読んでくれているかなんて知る術はないけど、この行を読んでくださっている方は間違いなく私にとってありがたい。

ありがとうございます。

そしてきっと私の友人の話を信じてくれていることでしょう。

私には本当は友人は1人もいないかもわからないのに。

ありがとう。

人は無意識に優しい。その優しさがきっと何処かで誰かの心を救っている。

その無意識の優しさに甘えないでいたい、慣れてしまうのはとても怖い。

だけどありがとうとオウムの様に繰り返すだけでは何も伝わらない。

同じ思いの熱量を同じ言葉で伝え続けることも難しい。

慣れてしまう、私の発する言葉全てが言葉にするたび希釈されていくように感じる。

それは仕方がない、同じ味に私達は辟易してしまう時があるし、飽きてしまう時がある。

はじめて感じた水の感触を私は覚えていない、心震わせ涙を流した音楽をコンビニで聴き流してしまう時がある。

仕方がない、きっと防衛本能だ。

痛みにも慣れなくては辛くて生きていけない事があるから、幸せにだって慣れてしまう。

忘れてしまう事を、覚えていたい事を選び取ることは難しい。

嫌な事がないわけじゃない、悲しかった事が忘れられたわけじゃない、辛かった事は今も胸に刺さっている、怒った事がないわけじゃない。

怪我も病気もしなかったわけじゃない。

だけど、どれも大したことはなかった。
今の有り余る幸せに比べれば。

こういう話をすると何かいい事があったのかとよく言われるけれど、特別何かがあったわけじゃない。

だけど今日は面白い形の石を見つけたし、カフェの店員さんは優しかったし、ありがとうと言ってくれる人もお疲れ様と声をかけてくれる人もいた。今日も。

車に轢かれず、道端に咲く花を見れた。

周りの人が健康だった、誰の泣き顔も見なかった。

良かった。

本当に良かった。

当たり前に思える毎日は沢山の人の努力と気遣いで成り立っている。

大切な人や守りたいもののためにと働く人は同時に社会で生きるたくさんの人のために働いている。

凄すぎる。そんなの絶対当たり前じゃない。

とても豊かに暮らせている、だからといって満足することはきっと誉れではない。

満足して、安心した時、きっと私は忘れる。この日常に慣れてしまう。

もっとたくさんのことがきっと出来る筈。

これ以上を望むのはきっと贅沢だ。
だけどこのままでは私は何も返せない。

沢山のものを毎日貰っているのに、何も生み出せないまま眠ってしまう。

こんな日々に慣れて、何でもないことで怒ったり悲しむようになってしまうかもしれない。

優しさに甘んじて、誰かの気持ちを傷つけてしまうかもしれない。

この文章だって、幸せ自慢とかに聞こえていたらどうしようと思う。申し訳ない。

決してそうじゃない、見せびらかしたいわけじゃない。ただ、忘れないでいたい。

戒めとして残しておきたい。

いつだって申し訳なさと不甲斐なさで胸が張り裂けそうだけど、謝られて嬉しい人はきっといないしそんな事を望んでいないことも知っている。

私の心の弱さを理由に、罪悪感を抱かせるなんてしたくはない。

頑張らないと。

慣れないように、忘れないように。

こんな重苦しい話をして申し訳ない、引いてしまったり気持ち悪いと思う人がいても仕方がないと思う。

お互いのために関わらないでいましょう。

私の周りには優しさに溢れていて有り難さと同時にとても怖いと言う話は自分の中でもぐるぐると考えが巡っていてきっと終わりはない。

これはもしもの時の私への手紙でもある。

あの日の怒りも悲しみも痛みも忘れられないように、この感謝も幸せも忘れてはいけない。

都合の良い記憶だけを選び取ることは許さない。絶対に。

傲慢になったその時は許さない、過去の私が未来の私を呪い殺す。

私の友人を傷付けたら私は私を許せない。
けれどきっと傷付けてしまったこともあるだろう、知らないうちに。

嬉しくない言葉を使ったこともある筈だ。私は完璧じゃないし、優しくない。

反省をここに書き連ねても仕方がない。

やっぱりこの話には終わりがないのでそろそろ終わります。

うーん。軽めに雑にまとめると、優しい友人が多すぎてびっくりよ!ありがとう!これを当たり前だといつか思っちゃうかもしれない自分怖い!そうならないようにがんばろ!って話かな。

これは私の備忘録。

長々と読んでくれてありがとう。
私はきっとあなたの名前を知らないけれど、きっと優しい人だと思います。声もわからない誰かの記事を最後まで読む人なのはわかるから。

心に余裕がないと文章って読めないものです。

良い夢を見て美味しい朝ごはんを食べてください。暗いとこで液晶みてたらすぐにやめてくださいね。

それでは、おやすみなさい。

読んでくださっただけでとても嬉しいです!いつもありがとうございます!