「小さな幸せ探し」をやめる時

嫌なことから逃げられなさそうなとき、コンプレックスに押しつぶされそうなとき、日常に散らばる小さな幸せを拾い集めて「ああよかった」と安堵することは、一般的に「善」とされがちな気がする。

今日はちょっと髪型のおさまりがいい。かわいいネコと目が合った。なんとなく買ったパンが美味しかった。

そういった小さな幸せ集めをする習慣は、本当に辛い時には静かに自分を蝕んでゆく気がする。

小さな幸せに縋って現実から目を背けているなら、いっそすがらないほうがよいのでは?

小さすぎる幸せで満足しているけど自分は本当はそんな幸せだけじゃ物足りないでしょう?そんなみみっちい幸せで喜んでて馬鹿馬鹿しくない?

小さな幸せを感じたあとに、私はしばしばそんな気持ちが押し寄せるようになった。そう思うようになったなら、いっそ小さな幸せも淡々と受け流し、憂鬱の根本を現実的に解決するよう立ち向かう時なのかもしれない、と考えた。

嫌われる事に躊躇しない。「私は嫌だ」とちゃんと声を上げれるように、もしくは逃げたりする心の準備をしたり。
柔軟な策を練るために学ぶ時間を割いてみたり。

小さな幸せばかりにすがって、自分を蝕む問題から目を背けていないか?
小さい幸せのあと、嫌な気分になるのなら、しばし自らにそう問うことにしよう。

小さい幸せが完全に悪いことではない。
でも、それを見つけた後に負の感情に苛まれるならば、立ち止まって自らの肉体と精神に問いかけが必要である。


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